地方共同法人 日本下水道事業団

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日本下水道事業団におけるCI(コーポレートアイデンティティー)の取組

 日本下水道事業団(JS)は、30年ほど前、創立20周年を期して、イメージアップのためのCI活動を行いました。「CI」とは「企業体が望むべきイメージを意図的、計画的、戦略的に作り上げ、自らにとって最適な事業運営の環境を社内外を通じて生み出していこうとする手法」で、一般に、指針となる「基本理念」のもと、「CIメッセージ」(標語)と「シンボルマーク」が定められます。
 JSがCI活動を始めた平成3、4(1991、92)年当時は、下水道整備への投資額は増加傾向にあり、急速な下水道整備に伴い大量に発生する汚泥の処理が問題となって「エースプラン」というJSにとっての新たな事業も始まり、躍進の時期でした。

 一方で、当時、jsのイメージは下水から連想される「汚い」「暗い」などとオーバーラップして決して良いとは言えず、js 内部にもそういった意識が少なからずあったと思えること、地方公共団体の職員等から「下団(げだん)」と呼ばれていて、この呼ばれ方を変えたいと思う職員が多くいたこと、当時は、創立以来の「下水」という漢字をデザインした事業団のマーク(図左「しもきたマーク」と呼ばれていた)が用いられていたが、このマークも現代的な感覚からは外れたものとなっていたことなどが指摘されていました。

日本下水道事業団のシンボルマーク
日本下水道事業団のシンボルマーク
(左:見直し前、右:現在)

 こうしたJSのイメージを変えていくため、新しい統一的なイメージをシステマティックに提示し、JSの事業に関わるすべての人たちに存在意義を目に見える形ではっきりさせ共感を得ていく、JSのイメージアップ戦略として、CI 活動が進められました。
 創立20周年の1年前から具体的な取り組みが始まり、基本理念、メッセージ、シンボルマークについて職員から公募するとともに専門家の意見を聴きながら選定委員会のもと6 度にわたる検討がなされました。結果、選定委員会で愛称を事業団の英語表記「Japan Sewage Works Agency」からとった「JS」とすることが決定、4年7月には役員会承認がなされ、8月から、新たなシンボルマーク、バッジ、団旗、標語が使用されることとなりました。
 ここで、JSのCIを改めて紹介します。
 JSマーク(図右)は、①清流:清らか・快適性、②躍進:実行力・躍動感、③ネットワーク:水環境を守る・循環の3つをテーマとして、「JS」を基本にしたデザインであり、シンボルカラーとなったライト・ブルーの、細かいシャープな線が幾重にも重なりJSを形成しています。水の流れが繰り返し循環し、やがて清流となっていく姿と、線の一本一本が事業団の役職員を表し、その高い技術力が個性豊かに寄り集まり、豊かで快適な社会の実現に向かって貢献していく姿を表現したものです。
 CIの根幹となる基本理念「日本下水道事業団は、水と人のかかわりを考え、自然にやさしい下水道システムを築き、豊かで美しい環境の創造と健康で快適な街づくりに貢献します」は、JSの社会的使命を今後の方向と決意を込めて表現したものです。なお、現在の第 5 次中期経営計画の策定に際して、下水道事業及びJSを取り巻く経済・社会状況が大きく変化する中、地方共同法人としてJSが創造すべき普遍的価値、最上位概念として従来の基本理念を時代に即しつつ発展させる形で、新たな基本理念「日本下水道事業団は、下水道ソリューションパートナーとして、技術、人材、情報等下水道の基盤づくりを進め、良好な水環境の創造、安全なまちづくり、持続可能な社会の形成に貢献します」が策定されています。
 標語となるCIメッセージ「水に新しいいのちを」は、JSの目標を言葉で表し、シンボルマーク等とともに表示することで強く人々の心に印象付ける役割を担います。
 このCIの新たなイメージを定着させていくため、一体として使用、発信するというコンセプトのもと、CI 使用のガイドラインが作成され、名刺、封筒などの一連のデザインは色味・配置などが指定され、統一感を持って使用できるようになっています。当時の社内報でも、7回にわたって、意義や使用方法などを発信しています。
 当時CI活動に携わった水津さん(現 JS研修センター所長)によれば、「CIは、平成3年に旧日本道路公団(JH)が実施しており助言等いただきました。職員の応募作品の中にはCIのコンセプトにかなうシンボルマークに該当するものがなく、最終的には委員会に入っていただいていたデザイナーにお願いすることとなりました。実はJHさんがお願いしていたデザイナーと同じ方で、参考にお借りしていたJHのバッジが平行四辺形に金字という部分でJSのバッジと類似したため、お返しする際にちょっと気まずかったのを覚えています。
 また、CIのグッズ展開のうち、作業服の作成が最も印象深く、三越に依頼して作成することとなり、実際に使用する技術職員の意見を聞きながら、機能性の追求や、色の再現で何度も調整を行いました。初年度の作業服はメインは水色でシンボルカラーをラインにしたデザインでしたが、その後、ズボンが透ける、汚れが目立つなどの指摘があり、メインの色を逆にするなどの工夫をしました。生地がよく、デザインも好評で、現在も着ている方がいますが、注文発注のため新規出向者等に4月に配布できない、作業服にしては高額などいろいろな問題が生じ、現在変更されてしまったことは残念です。
 CIの目玉であるJSという愛称は、当時 JT、JR、JHなど公的な機関がJから始まる2文字の名称や愛称を使用していたこと、マスコミの方にご協力いただき、日本下水道事業団(JS)という名称を積極的に記載いただいたことから、早期に浸透したと思います。ただ、西日本設計センター勤務時代(平成 22(2010)年頃)、地方公共団体のベテラン職員さんを訪ねた時に「ゲダンさん」と呼ばれたのには驚きました。」とのことでした。JSマークは現在に至るまで継続して使用され、今や事業団と言えば「JS」として定着しています。

(日本下水道事業団経営企画部企画室編集)

研修施設の整備

水津 英則

研修センター所長 水津 英則


1.試験研修本館の建設
 1972(昭和 47)年11月、下水道事業センター発足とともに研修事業は開始されました。第1回研修は建設大学校(当時)の施設を、第2回は関東地方建設局関東技術事務所(当時:松戸市)の施設を借用して実施しました。1973(48)年5月に埼玉県戸田市の荒川左岸流域下水道荒川処理センター敷地内にプレハブの研修宿泊施設が完成しましたが、教室1つでクーラーがなく、夏は猛暑に苦しめられることから、研修業務の充実を図るための研修施設の建設は、緊急の課題でした。
 そこで、同荒川処理センターの一区画に試験業務・研修業務を実施する試験研修本館(現在の管理本館)を建設することになり、1975(昭和 50)年3月に竣工しました。完成した試験研修本館は鉄筋コンクリート造り6階建てで、152名収容の寮室を備えており、研修業務を安定して実施することができるようになりました。(写真1)

写真 1 試験研修本館(完成時)
写真 1 試験研修本館(完成時)

 その後、研修の需要増大と試験業務の拡大に対応するため、国・埼玉県から建設用地を取得し、試験業務の実験棟4棟を建設(昭和 51 ~ 59 年)するとともに、食堂、娯楽室、売店を備えた軽量鉄骨 2 階建ての新たな厚生棟を1985(昭和 60)年3月に完成させました。さらに、同時期に運動施設としてテニスコート2 面、卓球室も整備され、研修環境が大幅に向上いたしました。

2.総合実習棟の建設と管理本館の改修
 下水道事業実施都市が順調に増加していく中、研修参加希望者の数も増加してきたことから、更なる研修環境改善のため、1990(平成 2)年 3 月に管理本館を改修して517㎡の増設を行い、研修生一人当たりの寮室面積を拡張しました。これにより、あまり評判の良くなかった2段ベッド利用が解消されました。また、バス・トイレ付きの女性専用寮室も作られ、女性研修生の参加を容易にすることができました。
 また、JSの研修は、座学だけではなく実習を多く取り入れていることから、更なる実習の充実を図るとともに、増え続ける研修生の収容能力向上のため、実習施設と宿泊施設を完全分離する工事に着手し、1995(平成7)年4月にRC造り、地下1階、地上5階、塔屋2階建ての総合実習棟(延床面積4,978㎡)が建設されました。地下1階はコンクリ-ト実習室、土質実験室、1階はポンプ・脱水実習室、2階は製図実習室、セミナ-室(4室)、展示室、3階は大研修室(2室)、小研修室(2室)、4階中研修室(3室)、重金属分析室、5階は水質実習、生物室、天秤室、OA 実習室を設け、最新の研修設備で下水道技術者の養成ができるようになりました。(写真2)

写真 2 総合実習棟
写真 2 総合実習棟

 これに続き、管理本館の全面的改修工事も行われ、1997(平成9)年3月に、1階及び2階は事務室、講師控室、講堂等、3階から6階は寮室(収容能力 206名)を設け、宿泊能力を増強するとともに、体育室、談話室、自習室、教養室等を設けて生活環境の改善を図りました。さらに女性研修生の宿泊環境を整備し女性専用室2室(4人)と専用浴室が新たに設けられました。管理本館と総合実習棟は3階を渡り廊下でつなぐことで、研修生の利便性も図りました。(写真3)

写真 3 管理本館
写真 3 管理本館

3.新寮室棟の建設とオンライン研修対応
 栃木県真岡市に技術開発実験センターが設置されたこと及び試験業務を担当する技術開発部が本社へ吸収されたことにより、試験業務のために設置されていた各実験棟が不要になったことから、2019(平成 31)年2月に研修センター再構築中長期計画を見直して、実験棟跡地に、研修生の更なる生活環境の改善とセキュリティの一層の向上を図るとともに、今後増加が予想される女性研修生にもきめ細かな配慮をした新たな宿泊施設(新寮室棟)を設置することが決まりました。この宿泊施設は、免震構造を採用するとともに受変電設備及び自家発電設備を屋上に設けるなど、災害時の安全性を高めた施設とすることで、大規模災害時におけるJSの災害支援機能の維持を図る拠点としても位置付けられています。
 新寮室棟はRC造り、延床面積2,799.6㎡の5階建てで、JSの災害拠点となるよう免震構造を用いており、1Fは必要に応じて本社の災害対策本部を設置できる最大60名入室可能な多目的ルームと男性用大浴場、2Fは男性専用寮室(24 名)と談話ラウンジ、3Fは寮室 24 名分を男性、女性の研修生数に応じてフレキシブルに変更できるようにセキュリティドアを設けるとともに女性用のパウダーコーナーを洗面所に併設するほか、談話ラウンジ、4Fは女性専用寮室(10名分)と女性専用バリアフリー寮室(1 室)、女性用大浴場を設けています。(写真 4)
 宿泊は個室、学習室は4人1部屋として、プライバシーの確保と集合研修でしか得られない研修生同士の交流の両面を実現するように工夫しました(写真 5)。また、屋上の緑化、雨水利用や日射を抑制する木製のルーバーを設けて環境に配慮した構造となっております。

写真 4 新寮室棟
写真 4 新寮室棟
写真 5 宿泊室(個室)と学習室
写真 5 宿泊室(個室)と学習室

 2022(令和4)年度から、管理本館と総合実習棟とともに、新たに加わる新寮室棟をうまく活用し、研修生の皆様には、充実した環境で高い研修効果を得ていただくとともに、下水道の未来を築いていく仲間とのつながりを育んでいただきたいと考えております。
 なお、新型コロナウイルス感染症の影響で、2020(令和2年)度に多くの研修が中止になったことから、2021(令和3)年度は集合研修の実施に加え、積極的にオンライン研修を実施することとし、そのためのスタジオを整備しました。現在は総合実習棟内の教室に2スタジオ、管理本館の情報管理室に2スタジオを設置しています。今後は常設のスタジオを設置し、コロナ禍においてもニーズのある研修を確実に実施していけるようにオンライン研修のメニュー拡大や実施の工夫をしていきたいと考えております。

研修施設の整備
研修施設の整備の経緯

阪神淡路大震災と災害復旧

1.地震概要
 1995年(平成7年)1月17日早朝、兵庫県の淡路島北部を震源とするマグニチュード7.2、最大震度 7という、阪神の都市部等を直撃した兵庫県南部地震が発生した。発生当初、事業団職員も状況を把握できなかったが、被災地の様子がテレビ中継で明らかになるにつれ、被害の大きさが徐々に明らかになった。火災で舞い上がる黒煙、倒壊した阪神高速道路及び上階部が潰れた神戸市役所等の映像がテレビで映し出されたが、これらの映像は想像を超えるものであった。

2.下水道の被災状況
 地震による下水道施設への被害も凄まじいものであった。神戸市では、ほとんどの下水道施設が被害を受けていたが、中でも神戸市東灘処理場の被害が最もひどく、壊滅的であった。運河護岸の滑動に伴う側方流動や、液状化による地盤沈下で構造物及び基礎が影響を受け、通常の運転ができない状況となり、処理機能は停止した。
 また、西宮市と芦屋市の処理場、ポンプ場においては、躯体が移動しており、ほとんどの施設で流入幹線との接合部分付近で、破損、ずれが発生していた。

3.事業団の発災当初の対応
 1月17日午前9時に、大阪支社に災害対策本部が発足し、18日には建設省(現国土交通省)から、被災状況調査のため下水道関係調査団4名が派遣された(事業団からも計画部調査役が派遣された)。19日には、①被害を受けた下水道施設の調査、②災害復旧設計・積算・施工管理、本格的復旧など、当面の震後対応の検討、③今後の下水道施設の地震対策の検討を目的として、「下水道地震対策連絡会議」が建設省に設置され、事業団は、本社計画部が支援本部事務局を、大阪支社が前線本部の事務局を務めるとともに、支援に伴う人材集結場所・資機材ストックヤードとして、事業団の当時のエースセンターの施設を提供した。21日には、通常業務の確実な遂行と被災都市の復旧支援を行うため、対策本部にプロジェクトチームを設置した。2月9日には、「下水道地震対策技術調査検討委員会」が設置され、事業団からも計画部長及び技術開発部長が参画した。

兵庫県南部地震の概要
東灘処理場被災状況
東灘処理場被災状況

 当時の支援実績の記録では、発災後約 2か月間に延べ1,000 人を超える事業団職員が支援に参画していることから被害の大きさを物語っている。また、当時の支援者(事業団プロパーOB)によれば、「当時は、事業団におけるプロパー職員の割合が少なく、神戸市からの出向職員が中心となり大阪市のベテランの出向職員が合流し支援チーム※が結成された。プロパー職員は災害支援のために手薄となった他の業務のフォローに回ることが多く、数か月後の4 月には災害復旧のため神戸市、大阪市に戻った職員に替わって、京都市から多くの職員が出向され、遅延した業務を支援した」。また、「携帯電話やデジタルカメラ等の備品やインターネット、メールなどのツールがない中で多くの関係者との情報共有に大変苦労した」。そんな中でも、「積算の電子化を進めており、スタンドアローンで動く積算システムも実用化され、ネットワークがつながっていなくても現地で積算ができることにより、大幅に作業が進捗した」とのことであった。

※ 兵庫県東部地域支援チーム(芦屋市、西宮市の支援を担当)、兵庫県西部地域支援チーム(神戸市の支援を担当)

4.東灘処理場の緊急応急処理と復旧対策支援
 壊滅的な被害を受けた東灘処理場は、汚水導水渠の破損及び配管廊の水没などにより運転ができなくなった。応急対応として、雨水ポンプの排除ルートの被害は少なく運転可能であったため、緊急時用として保管していた固形塩素剤を用いて汚水の消毒を行い、雨水ポンプを稼働させて雨水及び汚水のポンプ施設と処理施設の間に流れる幅約40mの魚崎運河に排除していた。

東灘処理場仮処理施設状況
東灘処理場仮処理施設状況

 東灘処理場の応急復旧にはかなりの日数を要することが想定されたため、何らかの暫定処理が求められていた。事業団は、神戸市及び建設省都市局下水道部の要請を受け、支援チームを計画部内に立ち上げて暫定処理方策の検討を行った。
 検討の結果、魚崎運河を締め切って仮沈殿池を建設し、処理場の仮復旧までの間、凝集剤を添加する沈殿処理を行うこととし、仮沈殿池及び沈殿汚泥の浚渫・脱水設備の設計・設置をはじめとして、施工管理、運転管理等までの一部支援を行った。

5.東灘処理場の災害復旧工事
 事業団は、災害査定資料の作成や応急復旧作業支援を行い、1995年11月、本格復旧作業に着手した。災害復旧工事の事業費は関連工事も含め約230億円で、着手してから3年4ヶ月後の1999年3月に完成した。

現在の東灘処理場
現在の東灘処理場

6.事業団にとっての阪神・淡路大震災
 阪神淡路大震災の復旧支援は、事業団にとってそれまで経験したことのない大規模な災害支援であり、この復旧支援を契機に「日本下水道事業団災害対策規程」や「日本下水道事業団地震災害参集等指針」等の規程類が整備された。こうした経験と取組は、その後の災害支援の組織的な対応を可能とし、また、ノウハウ等の蓄積も進み、それ以降に発生した災害支援に役立てられるものとなった。

(事業統括部)

特集にあたって―10年前仙台にて―

研修センター教授(元東北総合事務所長)青木 実

 東北大震災から10年たちましたが発災後に東北総合事務所長として1年間勤務し、4年後に設計センターの復興担当次長として勤務した者としては、10年後の現在をみて被災処理場の復旧や地盤沈下に対応する雨水ポンプ場の建設に関しては大部分がよく復旧できたとの喜びとやはりまだ建設できていない箇所もあるかという気持ちもあります。
 10年前の発災事に、私は完成検査で愛媛県西条市に居りました。検査終了間近に「宮城が大地震で被災している。かなり大規模でその影響で帰りの飛行機も飛ばない」との連絡があり、事務所の方に宿泊所の確保と翌日の飛行機の便を確保して頂き翌日東京に帰れました。
 帰京後に、4月から総合事務所長の内示を受けていたので3月17日の本社の対策本部に出席しました。その後理事長より「繰り上げで現地に派遣する。これから手配するので明日庄内空港まで行き、事務所の車で仙台まで行くこと。」との指示がありました。
 仙台到着後は、当日の先遣調査隊の調査報告と東京の本部との打ち合わせが連日ありましたが、宿泊所も完備されず食料も持参で、仙台から遠隔地まで行き、調査・復旧方法の協議などをして帰着後報告をされている先遣隊の方には、感謝の念しかありませんでした。
 4月より、仙台に派遣された設計センター復興支援室(室長+ 4職種× 3チーム)が中心となって応急復旧支援、災害査定、工事発注を行いましたが、被災団体への応急復旧方法、災害査定方針などを各職種の職員が直接被災団体に説明いただき、団体の円滑な理解と復旧実施に繋がったと思います。
 一方、被災がない団体からは予定通りの施工を求められ、施工管理の方には従前の業務の執行に加え応急復旧の支援とかなりのご苦労を掛けました。
 また、総務担当の方々にも復興支援室の方々や支援派遣者の大量の宿舎の手配や必要な調査資材の購入、調査などに伴う放射線被ばく量の管理など従来にない業務でご苦労を掛けました。
 この様な職員のご苦労があって9月以降には順調に各支援団体の災害査定へ移行できたものと思います。しかし、災害査定以降も現地状況の変更に伴う設計変更や査定申請の変更など多大な業務を遂行されて現在の施設復旧状況に至っております。
 長々と書いてまいりましたが、災害支援は非日常体験であり、経験値が物言う業務であります。災害手帳などのガイドラインはありますが円滑に支援するためには、目的・目標を見据えてより柔軟な思考・対応が必要になってまいります。東北の災害復興に携わられた方々はそれ以降の災害支援に対して経験値を十分発揮されたかと思います。災害のなくなることのない日本ですので、今後もその経験を活用・継承していただければと思います。

災害復旧・復興支援事業の推移

[災害復旧事業]
災害復旧事業
[復興事業]
復興事業

■本表では、処理場及びポンプ場等(雨水貯留施設を含む)施設について記載した。
■本表の他、岩手県久慈市1処理場、宮城県登米市3処理場1ポンプ場、福島県南相馬市1処理場に対して災害査定支援を実施した。

支援期間
災害復旧・復興支援団体位置図

座談会 復旧・復興支援プロジェクトを振り返って

 東日本大震災で被災した東北地方の下水道施設復旧・復興支援プロジェクトの開始から10年が経過し、ほとんどの施設が復旧・復興を果たしている。ここではその支援プロジェクトに深く携わってこられた金子氏、春木氏、豆谷氏のお三方にご登場いただき、支援プロジェクト全体を振り返りながら、その時々において感じた課題や解決につながった経緯などについて、そして携わった各プロジェクトの中で最も印象に残ったことなどを率直に語っていただいた。

入札の不調・不落への対応

——ご出席いただいた皆様は、復旧・復興支援事業に深く携わっておられましたが、まずはプロジェクト全体を振り返って、今お感じになられていることをお話しください。

金子

金子:東日本大震災の復旧・復興プロジェクトに関わったのは、本社の事業統括部事業課長になった時からですが、その際問題として持ち上がっていたのは復旧事業の入札の不調・不落でした。当時は谷戸理事長から毎月のように不調・不落対策について検討することを指示されていて、外部の委員の先生方にも入っていただきながら毎月いろいろな策を考えていたことが記憶に残っています。
 石巻市でもちょうどそのころポンプ場の復旧事業を十数件も受けるという話が出たので、複数の案件をどう整理して発注するかを考え、国の制度の確認と機械・電気の設備に関するJV制度の構築を進めました。当時、JSには機械・電気設備のJVという発想はなかったのですが、新設のポンプ場も多いので、維持管理のためにはやはり地元の業者さんでなくてはすぐに対応ができないのではないかと考えたわけです。JV制度ができたのは翌年になるのですが、その前に東日本設計センターの次長に異動となりました。
 設計センターでも問題になっていたのは不調・不落ですが、センターでできる範囲の改善を図っていきました。当時は南蒲生浄化センターの復旧事業が最盛期になっていて、現場では毎週金曜日に会議が開かれ、進捗管理が行われていました。岩沼市ではWTO相当の案件を同時に2本出しましたが、2本とも不調・不落になり、案件をまとめることで受注につなげました。石巻市も最終的には6カ所のポンプ場を取りまとめて発注しました。
 2年後に東北総合事務所の所長として赴任した時は、新設のポンプ場や管きょ(シールド)のWTO相当の発注が10件以上あると聞かされましたが、不調・不落はさらに深刻な問題になると不安が募りました。さらに東北沿岸部で道路や橋梁の工事でWTO案件が50本ほど出ているということで、業者の管理技術者は下水や道路によって決められていますが、その下で働く主任さんや作業員の方は、誰が来てもいいわけです。その人たちをいかにゲットするかということで、日建連の東北支部にお願いして会員のゼネコンの方々と意見交換させていただき、人員確保の状況などをお聞きすると同時に、アンケートでどこをどう緩和すれば受注しやすくなるかを問い合わせたりしました。それらを整理して、石巻市だけの特別ルールを作って、発注に備えたわけです。やはり魅力のある工事にならないと、なかなか不調・不落はなくならないということです。

東松島市野蒜ポンプ場3Dイメージと取り合い検討事例 東松島市野蒜ポンプ場3Dイメージと取り合い検討事例

 それと、東北での工事そのものが非常に規模の大きなもので、大手のゼネコンにも参加いただいていましたので、事故を削減するために平成30年に受注者を対象に安全に関する提案のコンテストを行い、そのノウハウをJSの中で水平展開することにしました。
 特に石巻市の雨水ポンプ場の新設は縦に積み上げていく施設なのです。処理場の水処理施設のように横に広がるものは同時に建設が可能ですが、縦につくるものは下が出来上がらないと積み上げられません。岩沼市のポンプ場で工期短縮をBIM/CIMの3Dモデルを活用して実施した事例があったので、機械メーカーを対象にBIM/CIMのコンテストを提案し、4社8工事でプレゼンをしました。
 東松島市ではBIM/CIMを導入して、現場でスムーズな工事進行が行われたと聞いていますので、これはかなり効果的だったのかなと思っています。
 大きな復興事業でしたので、この10年で培われた情報やノウハウを次の時代に残すことは意義のあることだと考えますし、BIM/CIMのようにDXにつながる技術の展開が図れることは非常に重要だと思います。

現場と設計センターとの連携を密に

豆谷

豆谷:私と東日本大震災との関わりは発災後すぐに短期間ではありましたが、東北地方整備局のお手伝いのために仙台へ派遣されたのが始まりでした。その後、本格的に携わるようになったのは、発災から3年後の平成26年、27 年度の2年間、東北総合事務所に勤務することになりました。1年目が施工管理課長、2年目は次長という立場で、この災害復旧・復興という仕事に取り組むことになり、それまで経験したことがないような逼迫感とともに、事業団人生の中でも、最も刺激的というか、課題山積の毎日を過ごす、本当に思い出深い経験をしました。
 先ほど金子部長も不調・不落の話をされましたが、やはり仕事の中で一番苦労したのは工事発注の進捗管理でした。当時は土木建築工事のほとんどが不調・不落のような状況で、委託団体からは、復興事業はただでさえ急ぐのに何をしているのだとお叱りを受けることもしばしばで、大きなプレッシャーを感じていました。
 設計センターにも頑張ってもらっていますし、東北総合事務所の職員もみんな日々頑張ってはいるものの、当時は民側が主導権を握っていますので、なかなかコントロールできません。契約金額の大きな案件に流れていくのは当然ですが、金額が大きくても、処理場、ポンプ場の躯体関係の工事は本当に人気がなかったのです。
 というのも、躯体工事では、鉄筋工、型枠大工、とび職、コンクリート打設のための作業員など、いろいろな職種の職人さんを確保することとその人たちの手待ち時間を作らないような段取りを上手に行う必要があります。それに比べると道路や護岸堤防のような同じ構造が長く続く工事は、手待ちを作ることなく一定の作業員で仕事が進められるため、ゼネコンから人気が高いのです。当時、下水道事業で人気があったのは雨水幹線のシールド工事くらいでした。
 配置可能な技術者はゼネコンにとって財産ですので、資格を持つ技術者の保有状況やその方の体がいつ空くのかなど、他工事の進捗具合についての情報をこちらもアンテナを高くしておく必要があります。また、工事案件をまとめてロットを大きくして発注するわけですが、その際には嫌われるような工事も合体して発注したいわけで、それで応募してくれなくなると元も子もありません。そこは業界と駆け引きしながら、収集した情報とセンスで乗り越えていかなければなりません。
 いろんなことを考えて工事発注にトライするわけですが、それでも不調・不落は発生するわけで、そのあとはリカバリーをいかに早く行うかが大切です。
 そうした中で特に必要だと感じたのは、現場の東北総合事務所と設計センターが相互に情報共有と連携を密にすることです。そこで、毎月、東北総合事務所と東日本設計センターの幹部が集まってテレビ会議を行い、1件1件の案件について解決策を話し合う定例会を実施することにしました。そのおかげで、あれだけ多くの不調・不落案件を何とか契約に持ち込むまでスピードアップを図ることができたと考えています。こうした東北での事例をもとに、今では「発注進捗調整会議」と名前を変えて、設計センターと東日本管内の各総合事務所の幹部が新規発注や不調・不落のリカバリーについて、各案件のスケジュール感を議論する場を毎月セットするようにしています。まさに東北モデルを起点にした仕事のやり方の進化のひとつだと思っています。

大幅な設計変更が次々に発生

春木

春木:私の東日本大震災の復旧・復興支援事業への関りは、発災直後の1次調査隊に加わって、被災直後の南蒲生浄化センター、阿武隈川下流流域下水道県南浄化センターなどの被災調査を行ってJS 本社の災害対策本部へ情報発信したところからスタートしました。23年4月に震災復旧支援室への異動で仙台に来て災害査定の支援を行い、24年2月からは東日本設計センターの土木設計課に戻って南蒲生浄化センターの災害復旧工事の発注に携わりました。その後、3年間ほど直接的な復旧・復興支援業務からは外れていましたが、28年4月に豆谷さんの後を継いで東北総合事務所の次長としてまた仙台に来たということになります。そのときは人手が足りなかったこともあって復旧・復興事業のプロジェクトマネージャーの仕事も兼務していました。翌29年から令和2年6月まで東日本設計センターの次長、センター長として復興事業の設計品質管理、発注・契約の管理を行い、現在は東北総合事務所長ですので、発災以後10年間で仙台勤務が3回となり、最初と中間と最終の節目に携わったということになります。
 お二方が話されたように、やはりJSの技術力とか努力ではコントロールできない入札の不調・不落対応が最も難しかったという印象です。業者は区画整理、道路、堤防などの大規模な復興工事に興味を示す傾向があって、加えて業者の技術者の不足、それから作業員の人件費や資材価格の高騰などが影響し、既存施設の災害復旧工事や少額の復興工事の入札はことごとく応募者無しの不調となった状況でした。
 下水道施設の復旧・復興事業のため早期に工事着工し完成、稼働させることが必須であり、当然、予算執行にも着目する必要があります。そのため応募者なしの場合は過去に既存施設を施工した業者に声掛けしたり、現場の近くで他事業の復旧・復興工事をやっているゼネコンにも片っ端から声を掛けたりしました。声掛けしては断られるの繰り返しで、なんとか応札していただいた工事案件が何件かありました。
 また、東日本設計センターでは、スピードが優先され、設計・積算も限られた期間の中で取り纏め復旧・復興工事を発注しなければならなかったこと。一方、それを受けた現場の総合事務所としては、他の復旧・復興工事との施工取り合い調整や工程調整、現地精査が必要となり、特に土木工事においては仮設、土工など大幅な設計変更がほとんどの工事案件で発生しました。
 設計変更は総合事務所だけでは判断できませんので、設計センターの同意を取り付ける必要があるのですが、総合事務所は変更の理由、必要性、他と比較して最適解かどうかといった資料を整理して、設計変更協議に臨むわけです。一方で設計センターとしては設計思想や通常事業との横並び、復旧・復興事業の特別視はできないとの考え方もあって、簡単にはOKを出してくれません。そこで、さらなる理論武装や資料の再整理を行うわけですが、こうした設計変更協議をほぼ毎月行っていました。現在も石巻市の浸水対策復興事業では同様な状況が続いていますが、私は総合事務所、設計センターの両方に在籍していたので、双方の想いや苦労が理解できます。

受託者の提案で工期を大幅に短縮

——では、ここからはそれぞれの方が携わってきたプロジェクトについて最も印象に残っている事柄をお話しいただきたいと思います。

金子:釡石市ではちょうどその頃、ラグビーのワールドカップの試合が開催されるということでしたが、地震による地盤沈下で雨が降って高潮になるとたびたび街が水浸しになる状況でした。住民からの要望もありましたが、この状態ではお客さんを迎えられないということで、ポンプ場の早期建設を副市長から何回もお願いされていたのです。かなり難しい工事でしたが、事業者の方々からいろいろな提案をいただいて、工期を非常に短縮して実施することができました。私の30年以上の土木の経験の中でも、ここまでやるのかというほど多彩な技術を導入して、工期短縮を実施したという事例(右上図参照)でして、年度末ギリギリになんとか間に合わせて稼働しましたが、その時は本当に感激しました。
 もともと釡石市は港町で、戦時中もいろいろな工場もがあったので、アメリカ軍の空爆も受けていたそうです。まだ不発弾が残っているかもしれないので工事開始当初は爆弾探査から行いました。また、昔の工場跡地は基礎の杭が残っていたりして、それを撤去するのも大変でした。たまたま機械と電気を同企業が受注したことと、土建業者の現場管理者が熱量の高い方で、そのおかげで事業者間の連携が非常に速やかにできたということも達成できた要因だとは思います。

工期短縮事例1・建築工事とポンプ設備工事を同時施工 工期短縮事例1・建築工事とポンプ設備工事を同時施工
工期短縮事例2・流入渠・放流渠設置と建築工事の同時施工 工期短縮事例2・流入渠・放流渠設置と建築工事の同時施工(吊り下ろし用のクレーンとリフトローラ工法の導入で建築工事と同時にボックスカルバートを施工)

団法改正を踏まえ枝線管渠再構築を受託

豆谷:平成26年度に施工管理課長として着任して、まず苦労したのは、岩沼市の案件になると思います。雨水ポンプ場3カ所と雨水排水路3路線の工事を受託していて、その排水路3路線では2~3m角の大きなボックスカルバートをほぼ開削で約5km整備するというもので、かなりの難工事でした。JSではそれまでシールドや推進の幹線管渠の受託が主流で、市街地を大規模な開削工法で実施する幹線工事に携わるのは私自身初めての経験でした。
 対象地区全体が当時復旧・復興の最盛期で住宅や大規模商業施設の新設が同時に進捗していく中を開削で排水路を敷設していくので、我々の工事の影響で新築のお宅が傾いたとか、壁にクラックが入ったなどといった支障が出ないか、地下埋設物に穴をあけることはないかと本当に毎日ひやひやしていました。しかし、工事受注者の皆さんが慎重に工事を進めてもらったおかげで、なんとか大きなトラブルなく施工できたと思っています。
 仙台市の南蒲生浄化センターについてですが、私が東北総合事務所2年目の平成27年度には、40万㎥/日の高級処理の運転開始を控え、まさに追い込みの年という時期でした。発災後約5年間、躯体着手から設備完成で言えば満3年足らずで実施し、平成27年11月には活性汚泥の馴致のために、まず半分の20万㎥/日の水処理施設の運転を開始することができました。
 全国でも有数の大規模処理場の復旧で、これほどの短期間で建設するということはこれまで例がなく、本当に世界に誇れる官民一丸となって成し遂げた偉業だと考えています。南蒲生の現場に「全国より選ばれた職人集団、見せよプロ根性!東北の復興のために」と書かれた看板があって、現場に行くたびにいいスローガンだなと思っていました。ピーク時には何千人もの技術者や職人さんが働いていたそうですが、これだけの偉業を担った皆さんの努力と共に、JSの対応力も誇りに思います。
 そして福島県浪江町は原子力発電所事故の関係で、全町避難を余儀なくされていましたが、平成27年当時、平成29年3月には居住制限区域などの避難解除を目指すという方針が政府からも打ち出され、町民の皆さんが戻って来るまでに面整備管渠を復旧する必要があるということで、JSに支援の要請がありました。
 ちょうどその頃、日本下水道事業団法の改正が施行され、幹線管渠だけでなく、一定の条件が整えば面整備管渠も受託できるようになったということもあり、JSとして枝線管渠の再構築に初めて取り組むことになりました。
 しかし、当時は不調・不落が当たり前の時期で、避難解除までの期間が短いので、とにかく応募者無しは避けたいと、南相馬市内に仮設オフィスを開設していた浪江町の地元業者さん数社へJS工事のPRに足を運んだところ、社長さんたちからは「私たちは浪江町に育ててもらった。町の復興のために一肌脱ぎたい」と即答いただきました。これには本当に感激したことを憶えています。

開削で施工が行われた岩沼市・二野倉排水路 開削で施工が行われた岩沼市・二野倉排水路
南蒲生の現場に設置されたスローガンの看板 南蒲生の現場に設置されたスローガンの看板
浪江町での管きょ布設工事の模様 浪江町での管きょ布設工事の模様

JSに求められている力

春木:平成28年に次長として東北総合事務所に赴任した時にはプロジェクトマネージャーもやっていまして、名取市、岩沼市の復旧・復興プロジェクトに1年ほど関わりました。先ほども少し触れましたが、工事を進めていく中で設計変更が不可欠となっている現場状況でしたので、災害復旧の査定額を超える、もしくは復興申請額を超える設計変更となると、国土交通省防災課や復興庁との設計変更協議が必要になってきます。これをクリアしないと当然、増額予算は下りません。
 ただ、そのハードルが非常に高くて、当然ながら変更の理由と必要性、申請内容との差異、比較した最適解なのかどうかが問われるのですが、その協議資料を作成して復旧事業については霞が関の防災課まで行って説明しなければならないわけです。その作業に相当な時間と労力をかけたことを思い出します。
 協議資料は、いつの頃からか資料のすべてをパワーポイントでつくらなくてはいけなくなっていて、図面や写真を多用し分かり易く工夫し、かなり丁寧に細かくというのが慣例のようになっていました。その作業はプロジェクトマネージャーが主体となって受注者や監督員から材料をもらってつくり込むというものでしたが、それがとにかく大変だったと記憶しています。増額を要求するわけですから、JSのつくる資料次第、JSの説明次第で認めるか認めないかということになりますので、それに対するプレッシャーは非常に大きかったのですが、今から思えば、それもJSに求められている力なのだと思います。

課題解決への大きな原動力に

豆谷:東日本大震災は被害が広範囲に及び、地震の揺れだけではなく津波もあって、さらに原子力発電所の事故という日本がそれまで経験したことのない大災害でした。インフラ全体が壊滅的な被害を受ける中、下水道も大きなダメージを受けましたが、復旧・復興事業が開始されてから10年が経ち、ほとんどの施設が復旧・復興を果たしています。
 あの被災状況に対してこのスピードで復興できたのは、被災した団体、市民の力はもちろんですが、国や県、そして全国の自治体の支援、多くの民間企業など、その力の結集があったればこそだと思います。そして、その中でJSの職員が果たした役割も大きいのではないでしょうか。未曽有の大災害の復旧・復興を支援したJSの経験・知見は、先行き不透明なこれからの時代に向け、さまざまな課題解決への大きな原動力になると思いますし、地方公共団体の皆様から今後も信頼される存在であるためにも、これらを次世代の若い職員に継承していくことが大切だと、この10年を振り返って感じています。ぜひこれからのJSにも期待していただきたいと思います。

——ありがとうございました。

 放射能物質を含んだ大量の汚泥の減容化事業への取組みについては、すでに「季刊みずすまし」(№185号)のピックアップ記事「東日本大震災から10年 復旧・復興を支えたJSの力:放射性物質を含んだ大量の汚泥の減容化 タッグを組んで乗り越えろ!!」を通じて、皆様にお伝えしていますが、当記念誌発行に際しましては、あらためて当時の状況をさらに深くお伝えできるよう再録するものです。

 福島再生プロジェクト推進室の挑戦にまつわる記事はどれを見ても、地域住民の皆様の深い理解と支援への感謝の言葉で結ばれています。携わった職員も皆、異口同音に地元住民の皆様から感謝の言葉をいただけたことで、一生懸命やってきたことが報われたと感じた、と口にしています。

 未曽有の大災害、放射能という未知の見えない相手、加えて処方箋すらない時間との戦いに、職員たちはどのように挑んだのでしょうか。JSとして、忘れてはならない事業のありようを、現場の最前線で指揮をとった山本博英元福島再生プロジェクト推進室次長(現水ingエンジニアリング(株)担当部長)にうかがいました。

挑戦

山本 博英
山本 博英氏
元福島再生プロジェクト推進室次長
(現 水ingエンジニアリング(株)担当部長)

■減容化事業の背景と事業団の取組み

広報:あらためて、おたずねしますが、減容化事業とはどのような経緯ではじまったのですか。

山本博英(以下山本):東京電力・福島第一原子力発電所の事故発生に伴い、福島県内の下水処理施設において、下水汚泥中から高濃度の放射性物質が検出されました。これら放射性物質を含む汚泥は管理・安全対策の観点から、場外への搬出が難しく、保管状態が長期化。行き場を失う結果となり、処理・処分に関する難題を抱えている状態でした。
 中でも福島市堀河町終末処理場と福島県阿武隈川上流流域下水道県中浄化センター、県北浄化センターの3カ所に集められていた長期保管汚泥に関しては、特に放射性物質の影響で、これまで緑農地やセメントで利用されていた流通が停止してしまっていました。この状態がこのまま続いてしまいますと、下水処理施設自体の運転が困難な状況になってしまいます。日々発生し続けている放射性物質含有汚泥を乾燥や焼却により減容することで、早急に汚泥保管の延命化を図る必要がありました。

広報:放射性物質を含む汚泥の保管長期化をまず解消しようとされたのですか。

山本:はい。日々の汚泥発生量を減容化汚泥量が上回れば、保管施設に余裕が生まれます。乾燥と焼却により減容化された汚泥は、最終的に国が飯舘村に設置した放射性汚泥廃棄物処理施設に送られて処理されます。
 このように減容化することで汚泥量は減少するわけですが、一方で注意すべき点も出てきます。減容化により放射性物質の濃度が高くなります。濃度が8,000Bq/kg超の汚泥は国が定める指定廃棄物として管理する必要があるわけです。また、10万Bq/kgを超えるより高濃度な廃棄物は管理方法がより厳格になるため、極力発生しないようにする必要がありました。福島県、福島市の浄化センターでのこうした減容化に関する取組みは「季刊みずすまし」(№185号)等を通じてお伝えしているとおりです。

広報:事業団はどのような体制をとったのでしょうか。

山本:放射性物質が汚泥中に堆積される事が判っていたため、当時、野村技術戦略部長の下、資源技術開発課で所掌するようにしました。環境省事業実施段階では放射能対応を専門的に扱う部署として福島再生プロジェクト推進室を設置しています(2013年(平成25)年4月~2019(平成31)年3月)。

広報:当初のスコープはどうされていたのですか(環境省減容化事業前)。

山本:課内で放射性物質に関する勉強会を開き、放射能の基礎―特に人体への被ばくに関する考え方について、理解を深めていきました。
 当時、資源技術開発課に国土技術政策総合研究所(国総研)から出向している職員が在籍していて国や国総研との調整をスムーズに実施出来ました。大学で原子力関係を専攻していた職員も在籍し、そのツテを通じて株式会社三菱総合研究所(以下MRI)の放射能廃棄物部署を紹介してもらいました。ここでの放射性廃棄物と下水の関連性に関する勉強や意見交換が、県・市への減容化施設(焼却、乾燥)の実施において、大いに役立ちました。
 汚泥の減容・濃縮を目指す闘いでは、放射性物質の挙動に関する理解など、すべてが手探り状態だったわけです。

■国交省の研究調査を受託。そして環境省の事業計画へ

広報:国交省からの受託研究調査はどのような内容で、その成果はどう活用されましたか。

山本:調査結果とこの過程で得られた経験は、後の環境省事業計画作成に反映しています。
 内容面ですが、焼却施設での放射性物質の挙動や、システム内での高濃度箇所の確認(脱水汚泥ホッパ、焼却灰バグフィルタ)、作業員の想定被ばく量調査など多岐にわたります。
 この他、太平洋セメント株式会社らと共に、早期に実証設備を設置して、汚泥中放射性物質の高濃度濃縮回収技術の研究開発を行いました。この技術は後に飯舘村蕨平地区の実証プラントにも採用され、堀河や県北の乾燥汚泥中の放射性物質を濃縮回収する事に利用されました。

広報:個々の地方公共団体から支援や技術援助の要請等はありましたか。

山本:東北、関東甲信越の広範囲の自治体から問合せがあり、同時に情報交換も行いました。
 問合せ内容は、検出された放射性物質が福島第一原子力発電所の事故由来かどうかの判断、汚泥の保管方法等でした。
 ご存知のように放射性物質には半減期があり、時間の経過とともに放出される放射能は減衰します。セシウム134(Cs134)は2年、セシウム137(Cs137)は30年の半減期であり、この違いから由来が判断出来るものもありました。状況により、予算を投じた対応策をとるよりも保管・管理で濃度の減衰を待った方が良いパターンも考えられるわけです。
 東京電力に対する求償に関する問い合わせや、癌の治療に係る放射性物質の検出に関する相談もありました。

広報:環境省事業はどのような実施状況でしたか。

山本:環境省が実施した公募型プロポーザルに応募し、福島市堀河町と阿武隈川流域下水道県中浄化センターで、減容化調査事業の事業者に決定しました。調査業務となるわけですが、特措法の施行により、8,000Bq/kg超の放射性物質含有物質は指定廃棄物として国(環境省)が処理することが決まりました。これら2カ所の汚泥も指定廃棄物であり、前代未聞の減容化業務を調査、計画、建設、運転、撤去の一連の事業として請負いました。
 環境省へは国交省下水道部やJSからも放射能対応の為、複数の職員が出向され、減容化事業を監督するとともに、東京電力との調整や、減容化物の最終処分先の調整など行っていました。指定廃棄物の処理ではここで紹介する下水道事業が最も早く着手され、早期に完了にこぎつけた事業でした。
 JS内部では、この調査業務に対して、技術職と事務職が一体となって対応していきました。放射能対応を焼却、乾燥などで実施する事に対し不安を持つ国民も多く、特に広報課ではこうした質問などの対応の窓口となってもらいました。環境省調査事業では、下水と放射性廃棄物の専門家でタッグを組んでいます。堀河町では、JSを筆頭としてMRI(三菱総合研究所原子力事業グループ)と新日鉄エンジニアリング(下水乾燥炉)がJVで応募。県中では神戸製鋼(原子力・CWD本部)を筆頭として神鋼環境ソリューション(下水焼却炉)・JS・MRIがJVで応募しています(※CWはケミカルウェポン:地中に残った化学物質処理等)。
 JSではJV構成の炉メーカー決定に当たって、JS共同研究実施を前提に多くの焼却、乾燥メーカーにヒアリングを行いました。ヒアリングの結果、建設は実施できても放射性物質含有汚泥の運転管理まで出来る企業は少なく、結果として2社と組むことになりました。
 JSは福島再生室が担当しましたが、本件は建設、運転管理を含む大規模な調査業務であり、誰も実施したことのない事業でもありました。担当職員はこれら一連の知識と経験を持つ優秀な機械や水質分析の専門家を配置しました。
 技術的な対応以外に、契約に必要な人工数等の集計やエビデンス整理にも相当な労力を費やしました。

広報:環境省に委員会が設置されたようですが、どのような議論がなされたのですか。

山本:委員会は環境省が設置し、委員長に大迫政浩先生(国立環境研究所資源循環・廃棄物研究センター長)、委員に高橋正宏先生(北海道大学大学院工学研究院環境創成工学部門水代謝システム分野教授)、井口哲夫先生(名古屋大学大学院工学研究科量子工学専攻教授)お迎えし、事業者作成の実施計画の妥当性や実施内容の検証、アドバイス等をいただきました。
 また、大迫先生の所には、事業の計画段階はもとより、実施中も疑問点整理や問題解決の為にいろいろと相談に伺い、都度丁寧にご対応いただきました。
  これ以降は、JSが代表企業であった福島市堀河町終末処理場での事業を中心に紹介させていただきたいと思います。

■地域住民の目線に寄り添い事業を展開

広報:地域住民への対応はどのように進めていかれたのでしょうか。

山本:まず、住民の方々とのコミュニケーションは堀河町終末処理場の所長様、職員の方々のご指導の下、進めさせていただきました。日頃より福島市と住民の間で良好なコミュニケーションが構築されていたので当プロジェクトもスムーズに入っていけたと思います。
 計画段階での説明会では、住民の方々にとって、地域除染が喫緊の課題であり下水汚泥の減容化も除染の一貫のような感覚であったと思います。処理場での減容化よりも、地域の除染を先に実施して欲しいとのお話も伺いました。しかし、下水処理場から汚泥の排出が出来なくなると、下水処理機能自体がストップしてしまい、下水、ひいては水道も利用できなくなってしまうため、地域住民の生活を優先したステップである事を説明し理解いただきました。
 また、説明会には放射性廃棄物の焼却・乾燥などで処理することに、不安を感じる方もいて、安全に事業が実施できる技術的な根拠や対策を丁寧に説明していきました。
 建設開始のタイミングでは、福島分室に分室長を置き、住民対応もよりきめ細かく対応出来るようになりました。
 また、情報公開も重要な項目でした。放射能は目に見えない脅威との闘いです。目に見えないからこそ日々の状況をリアルタイムで公開する事が求められました。近隣自治会へは計画段階、建設開始、運転開始、処理完了など節目での説明会を実施しました。運転管理段階では減容処理量、施設内線量の推移、施設境界線での線量等を環境省、福島市のHPで公開しました。特に現地ではモニタリングポストを住民から見える位置に設置し、放射線量の見える化を図りました。このような地道な取組みの結果として、運転管理の後半には地域住民から応援や感謝をいただけるほどまでになりました。

広報:JS研修センターはどのように関与しましたか。

山本:JS内部のほか、県やJV等の下水道専門家への放射能研修と、MRIや現地作業会社等の放射性廃棄物専門家への下水道研修を担いました。講師役として福島再生室の担当と、MRI等の専門家が対応しました。
 JSでは福島以外でも、東北、関東甲信越の多くの地域で放射能対応を考慮しなければならない現場がありましたので、被ばくに関する必要な知識の早期普及に役立ちました。よく理解して怖がる事が重要でした。

■減容化施設の計画から運転まで

広報:減容化施設の計画・建設・運転の状況を教えて下さい。

山本:まず計画段階で重要だったことは、放射線管理区域の設定をしていたことです。具体的に申しあげますと、法律に基づく管理区域での被ばく管理計画、作業員の被ばく量想定シミュレーションやローテーション計画です。作業員の被ばく量軽減に関しては、乾燥汚泥の自動ドラム缶封入装置や自動ドラム缶移送コンベヤなど、下水処理施設では見かけることがない自動運転装置の設置を計画しました。
 次に建設ですが、乾燥施設や汚泥輸送施設、乾燥汚泥貯留施設等の建設を行いました。また超短工期での建設が求められましたので、既存図面の活用や工場でのプレハブ化を盛り込むかたちで対応していきました。
 放射性物質を外部に漏出させるわけにはいきませんので、乾燥施設自体を大きな建物で覆い、建物内部の負圧管理(施設内部をマイナス圧にする)は必須でした。また、乾燥機自体も負圧管理や漏洩防止を徹底できる構造としました。こうした放射能対策は、臭気漏洩の問題をクリアすることにもつながりました。
 運転面ですが、作業員の被ばくを抑制するため、極力自動運転が出来る施設としました。管理区域から離れた場所に監視制御室を設け、管理区域内に入らなくても運転状況のモニタリングやコントロールが出来るようにしました。乾燥設備の重要なポイントには遠隔カメラを設置し監視制御室から状況を確認出来るようにしました。

広報:難しさを感じられた場面というと?

山本:まず、汚泥の長期保管に利用していたフレキシブルコンテナ(以下フレコン)の吊り上げ、運搬、解袋方法の選定でしょうか。保管の長期化解消が事業目標であったとお伝えしましたが、実に1年以上もの長期に渡って保管された汚泥があるわけです。仮に輸送中にフレコンが破れた場合の汚泥飛散対策や、解袋後のフレコンの洗浄保管方法の課題がありました。
 乾燥機については、処理される汚泥性状が一定の場合には安定した連続運転が可能でした。一方、長期保管により硬さなど性状の異なる汚泥が入ってくると、安定した自動運転が難しくなり、乾燥温度や攪拌回転数などの調整が必要でした。乾燥機に投入する汚泥性状を一定に保つため、汚泥のブレンドも行いました。
 安全に操業するための予防保全として乾燥機を停止しての内部清掃も必要でした。内部清掃などは人が機内に入っての作業であり作業員の被ばく対策に細心の注意を払いました。 多くの装置を自動化し被ばく抑制を目指した施設ですが、それでも汚泥を取り出した後のフレコン洗浄など、最終的な作業は人力に頼らざるを得ない場面が多々ありました。福島の為に、現地で作業に当たっていただいた方々には本当に感謝しています。
 このほか、フレコン解体機から減容化施設まで距離は100m以上あり、密閉管路での汚泥輸送が困難を極めたこと、フレコン切れ端など機械類の故障原因となる夾雑物の発生など事前に想定できない場所で、いろいろな事が起きましたね。
その都度、現地調査を行い、現場と本社の関係者全員で対策を練り、運転を継続しました。
 夏場の建設・運転管理では熱中症も重点管理課題でしたね。特に管理区域内はタイベックス(防護スーツ)や防護マスクを着用して作業にあたる関係から、熱中症のリスクも当然高くなります。こうした点への対応も難しいところでした。

■皇室の視察も

広報:関係者の施設見学や受入れはどのような状況でしたか

山本:施設見学については、見学会コースを設定して対応しました。仮の管理室で概要説明を行い、施設外観を見るコースでした。管理区域内は関係者以外入場禁止ですので、可動式カメラで状況を見ていただけるようにしました。
 見学には地域住民の方のほか、報道関係者、市三役、福島市議会議員、市幹部職員、県関係者や環境省関連、国交省関連の方々など幅広い方を受入れました。
 また堀河町減容化施設では皇室のご視察がありました。皇室の下水道関連施設視察は初めてではないかということです。
 ご視察にあたっては、警察やSP等による事前の安全確認への協力はもとより、ご説明を行う予定の管理室は念入りに整理し失礼のないよう心掛けました。見学当日は施設の外観と内部カメラを通じて乾燥施設の状況をご視察されました。作業員へ励ましのお言葉を頂くなど、たいへんな栄誉にあずかることとなりました。その様子はTVニュースでも放映されました。JS・JV各社のロゴが映るようにと控えめに飾っていたのですが、高さが合わず、残念ながらTVには映りませんでした。
 このほか、石原環境大臣にも堀河町減容化施設を視察いただきました。

広報:減容化事業を終えての総括をお願いします

山本:規模・内容ともに誰も行ったことのない大規模調査事業でした。
 各分野の関係者との協力のもと、大きな事故もなく完全に遂行出来たことに、まず感謝の気持ちで一杯です。これまでJSの仕事を続けてきた中でも、地域住民と直接関わり、また丁寧に合意形成を行いながら進められた事で、市民、県民、ひいては国のために貢献できたという実感が大きい事業となりました。
 重ねて地元の皆様、国、県、市の関係者、委員会の先生方、一緒に本事業に携わった多くの方々に恵まれたことに感謝いたします。

広報:本日は、貴重なお話をありがとうございました。尊い仕事を完遂された皆様が同僚であったこと、本当に誇りに思いました。長く伝えていかなければならない実績と思います。



【参考】

放射性物質を含んだ大量の汚泥の減容化 タッグを組んで乗り越えろ!!
~福島再生プロジェクト推進室の挑戦~

弓削田 克美 東日本本部事業管理室 上席調査役
三宅 十四日 関東・北陸総合事務所 運用支援課長
碓井 次郎  東日本設計センター  機械設計課長
小笠原 弘  東日本設計センター  計画支援課
(所属は収録時)

※ 当初、技術戦略部資源技術開発課(現資源エネルギー技術課)でスタートし、その後、プロジェクトを担当する福島再生プロジェクト推進室が平成25年4月から31年3月まで設置された。今回登場するのは推進室在籍者またはその準備期間等での関係者である。

福島県阿武隈川上流流域下水道県北浄化センター 長期保管汚泥 福島県阿武隈川上流流域下水道県北浄化センター 長期保管汚泥

 東京電力・福島第一原子力発電所の事故発生後、福島県下の下水処理施設では下水汚泥中から高い線量の放射性物質が検出され、場外への処理処分が停滞する事態が発生していた。中でも福島市堀河町終末処理場と福島県阿武隈川上流流域下水道県中浄化センター、県北浄化センターでは、長期保管された大量の下水汚泥が行き場を失っており、その処理・処分が大きな問題となっていた。
 JS日本下水道事業団では、環境省と福島県からの委託により、これら3処理場の汚泥の減容化に取り組むとともに、環境省が実施する飯舘村蕨平地区仮設資材化実証事業に参画した。ここでは、そのうち県中浄化センター(平成24~28年度)、県北浄化センター(平成25~29年度)において実施した汚泥減容化プロジェクトを紹介する。

長期保管の汚泥を振るい分けて

 県中浄化センターでは、フレコンバッグに詰められた汚泥のほか、フレコンバッグが間に合わず、土嚢で囲った不透水性舗装の上に直接汚泥を投入し、防臭のため土で覆い保管されていたものもあった。その量は合わせて約66,000t。神戸製鋼所、神鋼環境ソリューション、三菱総合研究所とのJVで仮設汚泥焼却施設を建設、25年9月から処理をスタートした。平成25年度は環境省の実証事業として覆土を含む8,000Bq/kg以上の汚泥18,000tの焼却処理を実施、26年度からは福島県の委託事業として8,000Bq/kg以下の汚泥48,000tの焼却処理について運転監視と履行確認を行った。

保管されていた下水汚泥

 放射性物質を含む汚泥の処理は当然ながら初めてのこと。まずは埋められた汚泥の性状確認と掘削作業から始めなければならなかった。
 「最初は戸惑うことも多かったのですが、JSの汚泥関係の専門部隊と原子炉のメーカー、焼却炉のメーカー、放射能などに詳しい研究機関とタッグを組み、アドバイザリー委員会の助言も受けながら施設の設計・建設・処理・搬送・解体を進めました。覆土には岩・石や木根、金属等が混入していたので、焼却するには異物の振るい分けをする必要がありましたが、密閉されたテント内で、ものすごい臭気の中、作業を行っていただきました」(三宅)。
 振るい分けされた汚泥を90t/日の流動床炉で焼却し、放射能濃度の高くなった焼却灰をフレコンバッグに詰めてさらに20フィートコンテナに収容した。
 「放射線量を示すモニタリングポストを処理場内外の4カ所に設置して周辺環境への影響を監視したり、作業員の安全を考えて徹底した放射線の被ばく管理を行いました。環境省の調査事業という位置づけもあったので、解体時も含めてマニュアルとして提供できるような調査プロセスとすることに苦心しました。次につながるノウハウとして残したいという現場の意識が高かったと思います」(碓井)。

乾燥機への投入汚泥サンプル採取を行う碓井さん 乾燥機への投入汚泥サンプル採取を行う碓井さん(県北)
設備の部品交換に立ち会う弓削田さん

気を配るのは放射線だけではない

 県北浄化センターでは、フレコンバッグに収納され保管されていた約25,000tの放射性物質を含んだ汚泥が待っていた。福島県からの委託で脱水汚泥60t/日を処理する仮設汚泥乾燥施設をJFEエンジニアリングがDB方式で建設、27年4月から運転を開始した。仮設テントで保管されているフレコンバッグを乾燥施設に搬入して処理し、乾燥汚泥をドラム缶に封入して飯舘村に移送した。施設の維持管理はJFEエンジニアリングが担い、JS は運転管理と施設解体工事の際の履行確認と環境調査を行った。
 県中と同様に処理場外周4カ所にモニタリングポストを配置し、処理場の外から測定値が確認できる表示板も設置したが、住民の理解を得るのには苦労したという。
 「県中も同様ですが県北についても、地元の方々を対象とした説明会を実施することからスタートしました。排ガスを出す煙突を設計する際も、できるだけ目立たなくするよう工夫したんです。作業そのものも初めてのことが多く、汚泥の入ったフレコンバックをどう運んで、フレコンバックをどう開袋したらいいのかといった一連の流れと人の動線、放射性物質の管理、安全対策も含めてすべてが手探り状態でした」(弓削田)。
 そして、平成29年度からは施設の解体・撤去作業が行われたが、ここでも見えない放射線との闘いは続いていた。
 「放射性物質が付着した機械類が数多くありましたので、除染を行いながらの解体作業には苦労しました。作業をされる業者の方々と検討しながら何とか進めていったという印象です。洗浄作業後に、実際のところどれだけ除染されたのかを確認することが難しくて、何度も現地に行かなければならず、一筋縄ではいかないなと感じていました」(小笠原)。
 しかし、こうした苦労の末に勝ち取ったものもたくさんあった。
 「このプロジェクトが動いたのは、やはり野村さんや山本さんたち推進室の初期のメンバーが“ やるぞ”と引っ張っていったことがあったと思います。さらに県中の場合はJVの個々のメンバーと連携し、みんなで知恵を出し合ったこと、アドバイザリー委員会の方々からのアドバイスがあったことで成り立ちました。県中の汚泥の振い分け方法やコンテナによる焼却灰保管のアイデアもこうした中から生まれました。一人ひとりの熱い想いがあり、それが幾重にも重なりあって結実したプロジェクトだったと思います」(三宅)。
 「放射線という見えない物質に向き合うということで、下水道の枠に入り切らない業務になりました。さらに長期間熟成させた汚泥を処理するという通常の下水道事業では考えられないことが多かったのです。しかし、いろいろな方々とコラボレーションしながら『ああでもない、こうでもない』とやりながら、『 じゃあこうやってみようか』という知恵が出たりしました。この経験は、本当に貴重だったと思います」(弓削田)。

排ガス中の放射能濃度分析のためガスを採取する小笠原さん 排ガス中の放射能濃度分析のためガスを採取する小笠原さん(県中)

 「県北で、一番印象に残ったことは、撤去が終わったあとの説明会です。大勢の地元の人たちが来るということで、線量計を持って緊張しながら待っていたのですが、テントだらけだった所が全部きれいになって、きちっと片づけられたところを見て、『 すごく、きれいになった』『信頼して任せてよかった』と言ってくださいました。一生懸命、情報公開に努めながらやってきたことが報われたと思った瞬間でした」(碓井)。
 「県北浄化センターは令和元年の東日本台風で阿武隈川水系支流の滝川の破堤により全体が水没しました。同じ台風があと数年早く来ていたら、放射性物質を含んだ汚泥も流されていたでしょうし、処理施設も相当な被害が出ていたと思います。期間内に無事に完了できたことを誇りに思います」(弓削田)。
 こうして長期保管された放射性物質を含んだ汚泥の処理・処分が完了した福島県阿武隈川上流流域下水道県中浄化センターと県北浄化センターは、令和元年東日本台風の被害も乗り越え、地域の水環境の保全のために粛々と下水処理を続けている。そして、JSでは、このプロジェクトによって勝ち得たさまざまな経験やノウハウを次の世代に残すべく、技術の向上と人材の育成に粛々と取り組んでいくのである。