地方共同法人 日本下水道事業団

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証言で綴るヒストリー Testimony

座談会

はじめに

事業管理審議役 金子 昭人
 座談会に出席していただいたOB面々が相変わらずお元気であったことがうれしかったです。会話をしていくうちに過去のことを思い出しJS創成期が見えてきます。そう、昭和のJSを感じてみませんか。

設立から10年間のJSを振り返る

〈出席者〉
河 井 竹 彦 氏  公益社団法人 日本推進技術協会 専務理事 
高 橋 春 城 氏  株式会社 TECインターナショナル 
平 林 正 行 氏  株式会社 正興電機製作所 技術顧問

〈司会進行〉 
金 子 昭 人
日本下水道事業団 事業管理審議役
ソリューション推進部長(収録時)

2021(令和3)年8月26日収録

座談会のメンバー

設立間もないころのJS

金子:本日は、私どもJS日本下水道事業団が創立50周年を来年迎えることを記念し、これまでの軌跡をたどる座談会の第1回目として、創立から10年ほどの草創期にご活躍されたお三方にお集まりいただきました。まずは自己紹介を兼ねて、これまでの略歴と主な仕事の内容についてご紹介ください。

河井:私は、いわゆるプロパーの4期と呼ばれている世代で、採用が昭和51年3月29日、あとに紹介される平林さんと同じです。中途半端な3月29 日というのは、前の年の8月に事業センターから事業団に改組されて、年度末の定員管理の関係でプロパーを入れて増やしたのではないかと思いますが、それからの2年3か月間は計画部の設計課で直営設計を主にやっていました。53年7月から戸田市にあった試験部試験課に3年ほどいて、56年10月には計画部計画課へ異動しました。その時に半年間、四谷にあった日米会話学院で英会話の研修をしましたが、これが51年に採用されてから6年くらいの間の職歴です。

金子:ありがとうございます。続いて、高橋さん、よろしくお願いします。

高橋:センターができたのが47年11月で、私の入社は48 年の4月です。最初の1 年半は技術部技術援助課に配属になり、宍道湖の流況調査や今治市などいろいろな調査業務を経験しました。その次の1年は埼玉工事事務所で行田市のポンプ場の現場監督を担当しましたが、事務所は東松山市にあり行田は出張所で一人勤務でしたので、心細かったのを覚えています。50年7月からの2年間は、計画部設計課で柏崎市の直営設計と、設計基準の作成に携わりました。
 そのあと53年4月から2 年間、建設省の下水道部公共下水道課に出向して行政に携わり、55年4月に戻って1 年間だけ東京支社西神奈川工事事務所、秦野市の処理場建設現場を担当しました。ここでもいろいろな楽しい思い出があります。56年4月に計画部計画課に配属になり、2年半ほど新規の下水道着手予定自治体を相手に営業をかけ計画設計や認可設計を担当しました。また、下水汚泥広域処理事業の基礎調査のようなことをやっていました。

金子:続いて、平林さん、よろしくお願いします。

平林:私は、採用は河井さんと全く同じで、事業団の4 期生です。この年の状況を振り返ると、前年までの五箇年計画では計画事業費が2.6 兆円だったところ、昭和 51 年度を初年度とする第4次下水道整備五箇年計画の計画事業費は7.5 兆円と約3倍になり、下水道事業センターも日本下水道事業団へと改組されるなど、下水道事業が急成長した時代です。そのような状況で、私達の同期入社は25 名もおりました。最初の2 年間は本社の設計課に配属されて、そこでは設計基準づくりの事務局のお手伝いと、大垣市浄化センターの直営設計に携わりました。東京都から出向の石川さんがチーフで、その下に河井さんと私が計画と土木を担当しました。
 そして2年後には、自分が担当していた直営設計の図面を担いで、その現場を担当する岐阜工事事務所に異動になり2 年間施工管理を勉強しました。何しろ図面に設計者としてハンコを押してあるので、現場で不都合があると、「このハンコ押したの誰だろうね」なんて嫌味も言われましたが、失敗は次へのステップと考え、楽しい仕事でした。その現場から戻って2年ほどまた本社の設計課で設計基準の仕事と、半年間の英会話研修もさせていただきました。

金子:当時の事業団の体制はどのようなものだったのでしょうか。現在は、それぞれ地域ごとに総合事務所に分かれていますし、設計は東西に分かれていますが。

川越市月吉汚水中継ポンプ場 川越市月吉汚水中継ポンプ場

当時の組織(昭和 50 年度 JS 発足時)
・ 役員(理事長、副理事長、理事、非常勤理事、監事)
・ 企画総務部【総務課、企画課 等】
・ 経理部【経理課、契約課 等】
・ 業務部【業務課、援助課】
・ 計画部【計画課、設計課 等】
・ 工務部【工務課、建築課、設備課 等】
・ 試験研修本部【管理課、研修部、試験部】
・ 東京支社、大阪支社【総務課、工事課、設計課、設備課、工事事務所 等】

高橋:建設工事の受託第 1 号は昭和47年12月の川越市のポンプ場で、関西支所※ができたのは48年6月です。ですから、47 年の発足当時から受託は始まっていて、私が入ったころにはもうてんやわんやの状態で設計をやっていたような記憶があります。(※ 50 年度東京支社設置に伴い大阪支社に名称変更)
 当時は発注の基準などはなく、とにかく仕様書をつくり、設計しながら発注していって、工事監督も併せてやっていくようなパラレルな仕事の仕方をしていました。仕事の主体は国や自治体から出向してきた猛者たち(新人の私にはそう見えました)で、東日本の受託工事であれば東京都、横浜市、川崎市などの他、仙台市や札幌市からも出向してきていて、東京支社ができるまでは、本社の設計課を中心に回していました。西日本のほうは関西支部が中心で、そこに大阪市とか神戸市、京都市の人たちが集まっていました。ルールがなかったので、ルールをつくりながら業務をこなしているような状態だったと思います。

平林:当時の組織は、本社の事務系は企画総務部と業務部があり、技術系が計画部と工務部だったと思います。業務部は協定や技術援助などをやっていて、計画部では、計画課が事業計画等、設計課が設計基準づくり、工務部は工務課が現在の企画調整課のような役割で、指名委員会などの運営を担当していました。あと設備課に機械屋さん、電気屋さんが配置されていました。支社は工事課が全体の案件の総括をしており、設計課が実施設計業務をやっていました。そして支社の下に工事事務所がありました。

金子:工事事務所に来ているのも、やはり国交省の出向者とかそういう人たちが多かったのですか。

高橋:現場はいろいろですよ。自治体から来ている人も当然いたし、中途採用という人も多かったのです。コンサルタント、大学、下水道公社などから来ている人もいました。もちろん国交省の土木、機械の人もいました。

平林:所長には政令市や国の地方建設局の人が多かった印象があります。

高橋:そうですね。初期の頃は、政令市だけでは足りないので下水道の経験がある中都市などにも声をかけ、できる人をかき集めて組織をつくり、仕事をこなしていたような感じでした。人集めには苦労していたような気がします。

河井:通水、施設の引き渡しを円滑にするために、現場の工事事務所には委託団体からの研修員も来ていました。

金子:事業を受託する際には営業活動なども行っていたのでしょうか。

平林:国交省の方もおられましたので、当時の5カ年計画の資料や各年度の予算要求資料などを参考にして、計画課のほうで自治体を回っていました。

河井:昭和 57 年頃には事業団へ委託する都市と委託しない都市の差は何かという判別関数を用いた分析を計画部計画課でしていました。その頃多かったのは、競馬や競輪などのいわゆる公営ギャンブルを抱えている都市からの委託です。あるいは首長さんが非常に下水道に熱心なところですね。

金子:特に営業はしていなかったイメージがありましたが。

河井:そんなことはなくて、例えば小規模の処理場が一斉に事業を始めたときに、計画設計、認可の話で各町村にお伺いに行くと、「下水道事業団ですか?」といった反応が多かったように思います。認知していただくのに苦労したようです。事業団が民間の設計コンサルタントと同じような扱いだったと聞いています。

平林:昭和 51 年は第4次5カ年計画の初年度で、そのときの普及率が23%です。それを5 カ年で40%まで上げようという時代ですからね。自治体の首長さんたちの選挙公約にも下水道の整備があり、そういう意味ではニーズはすごくあって、処理場の建設事業では事業団のシェアは20 数%あったのではないかと思います。

現場ではどんなことが

金子:いろいろな基準もまだはっきりしていない状況で、現場ではどのように管理していたのでしょうか。

高橋:国の基準や県の基準などを参考にして現場の管理・監督をしていたように記憶しています。ただ、さきほどお話しした行田市の現場では、現場打ち杭などの新しい工法に関して特に監督基準のようなものはなく、工事を請け負ったゼネコンの担当者といろいろ協議しながらやっていました。
 とりわけ、掘削抗がきちんと基礎地盤に達しているかを確認するのに苦心しました。基礎地盤に達しているかどうかは上がってきた土砂をザルに受けて「粘土が終わった」とか「だんだん砂が混ざってきた」という変化を見ながら、「この辺だな」と、杭の止まる場所を決めるわけです。もちろん地層図などもありましたから、それを確認しながらですが、ちゃんと基礎地盤に届いているかといった不安な気持ちはありましたね。入社 2 年目の現場監督員としての新鮮な緊張感をそのときに味わいました。

金子:現場ではいろんな方々との交流もあったのですか。

高橋:そうですね。自治体などの委託団体との交流は楽しい思い出です。地元の自治体の職員にとっては、自分たちの手で作り上げる初めての下水道ですから、同年代の若い人たちが多く熱意や活気にあふれていて、非常に意気投合した記憶があります。特に秦野市の人たちとは皆で飲んだり、食べたり、仕事でも喧々諤々やって、すごく充実していました。

金子:現場と設計部署との関わりはいかがでしたか。私が入社した頃は、設計変更は工事課でやるようになっていて、設計書を出したらあとは現場と工事課任せのようになっていましたが。

高橋:当時も設計変更は現場ではやっていなかったと思います。

平林:現場で発議の設計変更について、土木は現場で図面を描いて、数量計算をし、設計書の体裁にまとめて、あくまでも参考資料の扱いとしてですが、設計に渡していました。当時のそういったやり取りは、今と比べてすごくやりやすかった気がします。

金子:今ではプロジェクトマネージャー(PMR)がコントロールしていくことになっていますが、当時は設計課の人が同じようなことをしていたのでしょうね。

高橋:おそらくそうです。当時は現場の意見がすごく採用されていました。入社して日の浅い若造がいろいろ言っても、「そこまで言うならそうしよう」といった感じでした。だから、現場と設計とは仲が良かったですよ。

金子:逆に現場のほうから東京の設計課に来ることもあったのですか。

高橋:必要があれば行きました。現場では施工するゼネコンや機械メーカーの人たちと意見を交して工事を進めるわけですが、設計のことで何か問題が起きたときには、ある程度監督員としての判断があります。もし設計変更が必要と判断すれば、その検討結果を設計課に持って行って、ここは設計変更して全体をまとめるというようなことはやっていた記憶があります。設計課のほうでも、そうした意見を割と聞いてくれました。

直営設計の苦労と顛末

金子:今、事業団では次期計画(第 6 次中期経営計画)に向けた検討を進めています。まだまだ建設事業が主体の事業団ですが、今後 10 年、20年経てば、コンセッションやPFI が主流になり、事業団が工事を受注することは厳しくなってくるでしょう。そうなると、やはり直営の仕事がしっかりしていないと経営が難しくなると思いますが、当時はもちろん直営設計をやられていたのですよね。

平林:入社してすぐに岐阜県大垣市の浄化センターを直営でやらせていただきました。そのときに先輩方から聞かされていたのは、「今後、国をあげた下水道整備に事業団も大きな役割を担うわけだが、下水道協会の設計指針は、数値に幅がある。事業団が全国で仕事をするためには、全国に適用できるような事業団基準が必要。そうなると、事業団の設計思想を統一する必要がある」ということです。そういう背景の中で、事業団の技術を結集して、事業団のモデル設計として直営設計に取り組んだわけです。
 その頃の本社の設計課には各職種のベテランの人たちがそろっていて、課内で設計チームをつくることができたので、直営設計の担当となりました。私のいたチームは東京都から来られた副参事の人がチーフで、その下に土木の河井さんと私がいて、建築や機械、電気は本社の設計課に当時出向していた国や横浜市、東京都の人が入って、コンサルに委託してやっていました。並行して動いていたのが柏崎市の処理場の直営設計で、これは高橋さんとか木下さんのチームでした。
 その次が新潟県の十日町市で、これは札幌市から来られた島田さんがチーフで、松井さん、木全さんなどがおられました。その次は宮城県古川市で、これは金井さん、井上さん、佐藤さんだったと思います。要するに設計基準の作成作業を進めながら、そこに盛り込まれていく事業団としての統一的な考え方を反映しつつ、標準的なモデル設計をつくり、併せて若い職員のOJT をやろうということでした。ですから、補助申請、設計、積算など全部一通りやらせていただいて、非常にありがたい経験でした。

金子:そのときは土木だけではなくて機械、電気もプロパーがやっていたのですか。

平林:本社の設計課にはプロパーの設備屋さんがいなくて、私の同期だと工務部の設備課と支社の設計課にいました。ですから初期の直営設計にはプロパーの設備職は関わっていないと思います。

河井:水処理施設と汚泥処理施設の容量計算をやって、施設寸法を決めていったように思います。あと二人で分担しながら図面を描いて、そして計画の説明書も自分たちで文書を書いていましたね。私たちが入社してすぐに高橋春城さんから言われて、柏崎市の基本計画説明書を清書しました。また、処理場に入れる設備をどうやって選定していくのかといったこともありましたので、結構、手を動かした記憶はありますね。

平林:今みたいに電子データを便利に使いまわしすることはできないので、基本計画説明書を書き、容量計算して、施設の配置計画を行い、水理計算までやっていました。基本設計図は設計室みたいな所にドラフターがあって図面を描きましたよ。私たちのもう少しあとの人たちは、例えば汚泥濃縮槽の土木の数量計算をしたり、本当に詳細設計までやっていた人たちもいます。

高橋:柏崎市は、処理場の基本計画、基本設計のベースになるところまではやりましたね。詳細設計はエアタンの構造図を描いたぐらいでした。全部をプロパーが直営でやったかと言うとそうではなくて、一定の設計業務は民間のコンサルに出していました。
 柏崎市の基本設計で記憶にあるのは、処理施設のレイアウトで管理動線を考えて機械棟を管理棟に合体させたことです。また、札幌市から出向していた島田さんに計画上のし尿の扱いの重要性を教えてもらいました。
 下水道ができるまでは、し尿はバキューム車で集めてし尿処理場に持っていくわけですが、下水道ができると、それがだんだん減ってきます。そのような遷移期の二重投資を避けるための計画が必要ということです。場合によっては新たに運転開始する下水処理場にし尿を投入するとか、あるいは途中のマンホールに投入施設を作るといった議論をしました。退職後の海外の下水道計画案件などで、その経験が非常に役立ちました。

金子:直営でやっていた際のコンサルとの費用分担はどうだったのでしょう。

河井:費用は業務分担に応じた配分だったと思います。受け取った代金で図面を描くドラフターを買ったりもしていました。

金子:直営分は自分で資料をまとめて委託団体に説明に行くわけですよね。

平林:はっきりとは覚えていませんが、積算の歩掛りに対応して、業務分担と費用の割り振りを行っていましたから、事業団の担当範囲は自らが出向いていました。

金子:試験部のほうでも直営の仕事はあったのでしょうか。

河井:試験部は固有研究とか国からの受託調査、地方受託もしていましたが、すべてを外注に出すようなお金はありませんでした。ですから、試験課の職員が自分で採水して分析するということもありました。私の場合は確か研修部で自治体の職員相手の水質分析という研修コースがあるのですが、その研修で水質分析の実習をして、実際の調査で主に汚泥の含水率とかSS の分析をしていました。そのころ汚泥の農業利用調査担当は北坂戸処理場の脱水汚泥をもらいに行って、それでコンポストをつくる実験をしていました。
 また、OD(オキシデーションディッチ法)とか、 RBC(回転生物接触法)の機能調査では、グループを組んで処理場で24 時間の採水・分析試験なども直営でしていました。分析と実務が結び付いたようなことをやらざるを得なかったのが当時の試験課ですよね。外注は予算的に難しかったのです。もちろん報告書も自分で書かざるを得ないのですが、当時の試験部長は結構細かくて、添削は厳しかったですね。

金子:データからグラフを描くのも今ならエクセルに入れるだけで出来上がりますが、当時は手書きですよね。

河井:もちろん手書きです。報告書の原稿をつくるときはグラフ用紙にスクリーントーンの点を一所懸命落とした覚えがありますね。
 その頃、田中和博さん(後に日本大学教授)が、活性汚泥の循環変法で窒素を取るという実験を試験部でやっていて、それは滋賀県の湖南中部浄化センターの第1期の処理系列に採用されています。通水したのは昭和57年ですが、おそらく49~53年の調査研究結果をもとに、標準活性汚泥法に硝化液を循環できるような回路を組み込んだ循環変法へ処理プロセスを変えたわけです。そして最終的には生物学的窒素除去の第一号が出来上がることになりました。最初の10 年ほどでも、そういう新しい技術の実用化をいくつかやっていたように思います。

琵琶湖高度処理実験プラント 琵琶湖高度処理実験プラント

金子:こうした実験は受託団体からの要請ですよね。どこで実験を行っていたのでしょうか。

河井:おそらく国や滋賀県からの受託調査の中で調査・実験をやっていると思いますが、実際の実験フィールドは大津市の処理場を使ってやっていたのと、あと試験部(試験研修本部)に水処理実験棟という施設があって、そこに小さな活性汚泥法の実験装置がありました。隣の荒川左岸下水処理場の下水を使って循環法の実験をしていたと思います。

事業団の設計モデルをつくれ

金子:では、次に先ほども少し話題に上りましたが、設計基準の話に入っていきたいと思います。事業団への事業委託が一気に増加してきて、数をこなさなくてはならなくなった時期には、やはりモデル設計につながった事業団基準の存在が大きかったと思います。その頃の動きなどをお話いただいてよろしいですか。

高橋:東京と大阪では沈殿池の名前も違うぐらいですから、設計の手法・条件も違うし、考え方も異なっています。そういった大都市の人たちが集まってきて地方の中小都市の下水道施設をつくるわけですから、そう簡単ではありません。そして処理場の規模の違いや汚水の形態など地方特有の条件もあるので、設計の効率化や、ある一定の水準以上に設計の質を保っていくためには、基準となる設計思想やモデルが必要でした。それで設計基準の一次案の作成(昭和51年4月)へとつながっていったわけです。
 先ほども言いましたが、この時の職員構成は、国(事務・技術)と地方公共団体(県・指定都市・地方都市)の出向者とプロパー(新卒・中途採用)の3 者連合でした。一人一人が使命感に燃え、個性が強く、人間的な魅力もあり、百戦錬磨の猛者の巣窟という感じで、刺激的な日々でした。特に、設計課には下水道各分野の一級の技術者がそろい、目的は同じでも、計画、土木、建築、機械、電気など専門的な分野から見る下水道の姿が異なるのが新鮮でした。また、技術的な面だけでなく、社会的、 財政的な面からの公共サービス・事業経営などのアプローチの違いにも、下水道の幅の広さ、奥の深さを感じ、大いに勉強になりました。

金子:当時は下水道協会がつくっている設計指針があったと思いますが、この指針は北海道から沖縄まで全国で使えるように作成されたものですよね。それを事業団基準にしていくには、ある程度数値を決めていかなくてはならないと思いますが、この一次案の中には数値的なものも入っていたのでしょうか。

設計基準(第一次案)表紙写真
設計基準(第一次案)表紙写真

河井:一次案は下水道協会の「下水道施設設計 指針と解説」に定める原則を基礎に、事業団がより実務的に定めた内部資料と位置付けられていました。一次案は、基本設計、土木設計、建築設計、機械設計、電気設計の五編からなり、基本的な数値も協会の指針よりも少し狭い範囲で決めていました。一次案の基本設計編では、下水処理の標準フローシート、処理施設の全体配置計画などの基本設計の方法や考え方が書いてあります。例えば配置計画をどうするかといった内容で使っている図面は柏崎市で検討された配置計画の図面が何枚かあって、こういう思想で配置を考えましたという解説になっていました。
 一次案が出て10年とか15年ぐらい経ってから、それまでの調査結果を踏まえて、例えば最初沈殿池(初沈)の水面積負荷を変更するといった改訂が順次行われたと思います。

平林:よく議論したのが汚泥消化槽をどう位置付けるかと、排水のポンプ場をディーゼルエンジンでやるのかモーターでやるのかといったことです。そういう考え方の違いは結構大きかったように思います。

河井:それと施設名称の調整をしていましたね。つまり最初沈殿池は、東京都では第一沈殿池、大阪市では沈殿池。最終沈殿池が、東京都では第二沈殿池、大阪市が沈澄池。ポンプ場の名称も、東京都はポンプ場ですけれども、大阪市は抽水所なんですよね。また、沈砂池の配置では、ポンプアップしたあとに砂を取るか、その前に取るかという議論もしていました。

高橋:10 年ほど経った頃(昭和61年4月)に設計課にもう一回配属になりました。この時期思い出深いのは、OD 法の設計指針作成(昭和 62年11月)です。これは、この時すでに技術評価委員会によるOD 法に関する技術評価(第 1 次:昭和58年10月、第2次:昭和60年9月)が出されていましたので、これらをベースにOD 法処理場の運転実績を踏まえて、技術開発部や援助課の意見を反映させて作成されました。特に、作成委員会の中で、最終沈殿池(終沈)の大きさ(水面積負荷)について意見が出て、それまでの維持管理の経験を反映して、大きさを決めました。当時は、確か標準活性汚泥法の終沈の水面積負荷は協会の指針では20 ~ 30m3/(m2・日)だったと思いますが、援助課の堺好雄さんが、OD 法の場合は終沈に流入する固形物濃度が標準法の2 倍以上で汚泥沈降速度が遅いので、時間最大下水量流入時に20m3/(m2・日)が確保できるようすべきだと言うのです。それで、終沈の水面積負荷を8~ 12m3/(m2・日)にしました1)。確か現在の終沈の水面積負荷は、更に小さい8m3/(m2・日)(OD法標準設計:平成 15 年)になっているのではないかと思いますが、そんなかたちでOD 法の設計指針ができたわけです。

金子:当時 OD を使っていたのは日光市くらいですよね。この基準がなかったら、今では約 1000か所にものぼるOD 法を採用する処理場の広がりを見ることはできなかったのではないでしょうか。

高橋:苫小牧市の勇払処理場と日光市の湯元処理場、その二つの実績をベースにしていました。ですから、OD 法を小規模処理場の基本に据えたのは事業団だと言っても過言ではないと思います。

河井:事業団におけるOD 法の最初の技術評価は、苫小牧市勇払処理場等の調査結果に基づいて行われていたと思います。

人と人とのつながりが信頼を築く

金子:では、最後になりますが、事業団の発展への期待や、若手職員へのエールをいただければと思います。

高橋:事業団の役割ですが、これからも基本的には今と変わらないと思いますね。事業そのものはどんどん進化してニーズも変わってきますが、それをうまくキャッチアップしながら、委託団体の人たちとコミュニケーションをとって、事業団が新たなメニューを創り出していくことが大切だと思います。技術にさらに磨きをかけてベースとし、先ほどのOD 法のように日本の下水道をリードしていくような技術開発、技術の蓄積をして、信頼を勝ち得ていくことが基本になると思います。そして、事業団ではある意味いろいろなことが経験できます。業務の分野にしても技術の内容にしても。言いたいのは、手に職ではないけれども、自他共に認めるようなノウハウをぜひ磨いていただきたいですね。

群馬県中之条町沢渡水質管理センター 群馬県中之条町沢渡水質管理センター
(我が国最初のプレハブ OD 方式処理場)

河井:地方公共団体の支援機関という事業団の位置付けは変わらないと思いますが、支援するメニューが時代によって変わっていきます。当初はいかに普及率を上げるかでしたし、その次は小規模をどうするかという展開があってPOD(プレハブ式 OD)を発案するといったこともあるわけです。これは共同研究の成果ですけれども、その時々のニーズをいかに捉えて、それに対応するようなメニューを用意するかは重要です。それには、実際に現場へ足を運んで下水処理場の汚泥や下水を採取して分析するとか、実際に自分が付き合う相手を身近に感じるような機会を持つことが大事で、そういった経験を若手のうちにできればなおいいと思いますね。そして国内だけではなく、海外にも目を向けて仕事に取り組んでいただければと思います。

平林:現在はコロナ禍の影響もあってDX やオンラインといった働き方の変革が進んでいます。これは時代の流れだと思いますが、一方で、仕事とは、やはり人と人とのつながりが非常に大きい。たくさんの仕事をこなせば、様々なトラブルや相手先との意見の違いは出てきます。そういう時でも根本的なところでの信頼関係を損なうことなく乗り越えるためには、やはり人と人との対面での付き合いが重要だろうと思います。事業団は補助金を持っているわけでもないし、許認可権を持っているわけでもありません。あるのは技術力とそれに基づく信頼だけです。組織としてのつながりと、個人としてのつながりで初めて本音の話を聞けるし、本音のニーズを聞けるということを忘れないでいただきたいと思います。

金子:ありがとうございました。本日は、事業団の成り立ちから10 年という草創期の貴重なお話をお伺いしました。50 周年を機に、その経験をきちんと引き継いで、変化するニーズをしっかり捉えながら事業団がこれまで以上に発展するよう努力していきたいと思いますので、今後ともご助力のほどよろしくお願いいたします。

参照文献

1 )オキシデーションディッチ法設計指針(案)について、下水道協会誌、Vol.26、No. 299、 1989/4、pp. 96-105
※組織、写真(設計基準表紙、スナップ写真一部を除く)は、「日本下水道事業団 20 年のあゆみ」より

会津への職場旅行(昭和 50 年)
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同好会「道草山岳会」 同好会「道草山岳会」
南アルプス北岳山頂で(昭和 53 年)
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優勝した大阪支社チーム(昭和 54 年)
栃木県栗山村(現日光市)への職場旅行 栃木県栗山村(現日光市)への職場旅行(昭和 56 年)