地方共同法人 日本下水道事業団

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証言で綴るヒストリー Testimony

座談会

エースプランを振り返る

〈出席者〉
安 達  伴 憲   中国・四国総合事務所 香川事務所 監理員
金 井  重 夫 氏
川 口  幸 男 氏   (一財)下水道事業支援センター 事業部技術課
北 出    勝   日本下水道事業団 経営企画部人事課
  関東・北陸総合事務所 総務・協定課 アドバイザー(監理員)(収録時)
佐 藤  洋 行 氏   (一社)日本下水道施設管理業協会 常務理事
重 富  俊 男 氏
鈴 木  和 美 氏   メタウォーター(株) 事業戦略本部 シニアアドバイザー
村 上  孝 雄 氏   (株)日水コン 中央研究所 首席研究員
〈司会進行〉
橋 本  敏 一   日本下水道事業団 西日本設計センター長
  技術戦略部長(収録時)

2021(令和3)年11月17日

座談会メンバー 出席者集合写真(エースプランのマスコットとともに。左から、北出、佐藤氏、川口氏、村上氏、金井氏、鈴木氏、 橋本;左上(オンライン参加)左から重富氏、安達)

エースプランとの関り

橋本:今回は日本下水道事業団(JS)50周年に向けた特集企画の座談会の第2回目となります。設立10年からの10年間、昭和58年から平成4 年までの出来事から、61年4月の法改正で業務に加わった下水汚泥広域処理事業(エースプラン)を取上げることになり、当時を知る8名の皆さまにお集まりいただきました。
 はじめに自己紹介を兼ね、皆さまとエースプラ ンとの関わりをお聞かせください。

村上:JS 発足の昭和 50 年に入社し、平成 25 年まで勤めました。技術開発畑が長かったですが、エースには平成 2 年から3 年度に本社広域処理計画課の課長代理として関わりました。主な業務は予算の要求、事業計画の全体的な管理、社内外の調整、新規事業箇所の開拓です。印象深かったのは当時 JS のCI の公募があり、私が考えた「水に新しいいのちを」のコピーが採用されたことです。優秀賞をもらいましたが、表彰式の日に熱を出して欠席してしまい、総務からえらく怒られたことを覚えています。

金井:私も同じく昭和50年に入社しました。エースには平成16年の退職までに5回関わりました。最初は兵庫西広域処理事務所長を平成2年7月から1年9カ月間、エースセンターの維持管理、送泥管の設計、施工管理の総括を担当しました。大規模なコークスベッド式汚泥溶融炉の初期トラブルが多く残っていました。2回目は平成9年4月から2年間、計画部の広域処理計画課長として建設予算の総括、新規事業等を担当しました。3回目は平成11年4月から1年間広域処理計画課、広域処理管理課が統合された広域処理課の課長に1年携わりました。4回目は平成12年から2回目の兵庫西広域処理事務所長を2年間担当しましたが、この時はすでに事業の府県への移管が決まっていたと思います。5回目は平成14年から2年間業務部上席調査役を命ぜられました。平成16年3月エース事業の廃止と軌を一にし、下水道事業団を退職しました。この間5つのポジション、8年9カ月エースに携わりました。事業を発展させることが自分の役割と思って業務に携わってきましたが、残念な思いは消えません。

佐藤:私は昭和53年に入社し、2年後に当時の建設省都市局下水道部の下水道企画課に2年間出向しました。広域汚泥処理が構想として出てきた頃だったと思います。同時期に進んでいたフェニックス計画(大阪湾圏域における廃棄物の海面埋立事業)の法案協議に参加しました。57 年に JS に戻り、計画部設計課で下水汚泥広域処理事業の埋め立ての調査などを1年やりました。昭和61年に法案が通った後、大阪支社の事業部調整課に配置換えとなり、事業実施基本計画書案の要請団体との調整、単独と広域の費用比較、用地買収や認可変更、都市計画決定などの手続きを担当しました。その後、供用開始前にエースを離れましたが、平成10 年から大阪支社の事業部建設課 長を2 年間、12 年から兵庫東広域処理事務所長を務めました。

鈴木:私は昭和54年に入社し、昭和57年から62年まで技術開発部門で脱水や焼却、溶融などのその後のエース事業につながる調査研究を担当しました。昭和63年から平成2年までの3年間、事業部建設課に勤務し、最初の2年は兵庫東と西の実施設計の一部や建設に携わり、最後の1年は兵庫地域に加え大阪地区も担当することになり、兵庫地域の不具合対応と合わせて大阪南、大阪北東の建設と維持管理にも携わりました。4か所の全てのエースセンターの供用開始に立ち会いました。

北出:私は入社が昭和55年です。昭和61年から3年間、企画総務部総務課の法規担当として、エース事業に関わる組織規程や建設協定などの審査、地方税法の改正を行いました。その後、平成元年から2年間、事業部調整課で各種契約事務や工事用地の民間借入、尼崎市の公害部局との調整、姫路市税務当局の対応等々を行いました。
 平成6年から3年間は、経理部経理課で課長代理として、エース事業の大蔵省への予算要求と予算の執行管理を担当しました。
その後、平成11 年から2 年間、大阪南広域処理事務所の総務課長として大阪南の維持管理を、 続いて平成13年から2年間、経理部資金課課長代理として補助金申請、財政投融資(以下、「財投」)や民間からの資金借入に関わり、特殊法人改革でエースを廃止する際には、要請団体への財投の分割を担当しました。

エースセンター供用開始時の組織
(平成元年度時点)
・役員(理事長、副理事長、理事、監事等)等
・企画総務部【総務課、企画課、会計課等】
・経理部【経理課、資金課、契約課】
・業務部【業務課、援助課等】
・ 計画部【計画課、広域処理計画課、広域処理管理課、設計課等】
・ 工務部【工務課、建築課、機械課、電気課、技術管理課】
・ 技術開発研修本部【管理課、研修部、技術開発部】
・ 東京支社【総務課、工事課、設計第一~五課等】
・ 大阪支社【総務課、工事課、設計第一~四課、事業部(調整課、建設課、管理課)等】
・ 事務所(※広域処理関係のみ記載)
大阪広域処理事務所(※2年6月~:大阪北東広域処理事務所、大阪南広域処理事務所)
兵庫広域処理事務所(※元年10 月~:兵庫東広域処理事務所、兵庫西広域処理事務所)

川口:私は昭和53年から2年間のアルバイトを経て研修部の教官として入社し、34年勤めさせていただきました。エース事業には昭和63年から平成4年までの約4年間、事業部の管理課に在籍 していました。皆さんに比べたら在籍期間が短いですが、会話の中で思い出していこうと思います。

重富:私は51年に入社し、61年に大阪支社の事業部調整課で佐藤さんと一緒に用地買収や建設協定などに関わりました。その翌年からは佐藤さんと一緒に料金の仕事ばかりしていたことを記憶しています。それから10年後、阪神・淡路大震災が発生し、その影響が収まらない中、京都工事事務所に配置換えになりましたが、1年後には調整課に課長心得として戻りました。翌年には課長になり、合わせて2年間勤めました。その時に西宮市、芦屋市の参入があったと記憶しています。

安達:私がJSに入社したのは昭和52年です。エースに関わったのは、創成期に当たる昭和62年から平成3年の5年間でした。事業部調整課で主に管理協定の締結と最初の料金改定に携わりました。2回目は平成13年から15年の3年間で、経営課長(平成11年度に調整課から名称変更)として収支改善に取り組み、最後はエースの廃止に伴う移管のための要請団体の窓口業務を行いました。

大阪北東エースセンター(溶融炉全景) 大阪北東エースセンター(溶融炉全景)

手探り状態からの立ち上げ

橋本:昭和 61 年に日本下水道事業団法が改正され、エースプランが開始されることになるわけですが、事業創設の背景や目的などについて、お伺いしたいと思います。

佐藤:エースプランは当初、首都圏での必要性が問われ、その構想もありました。昭和56~57年頃、国の事業調査費で検討されましたが、なかなか実現に結び付かなかったのです。昭和 60 年の予算要求の時に、関西圏、中でも姫路市で汚泥の処分に困っているという話から、関西圏での事業化が急に決まり、50億円ほどの予算が付いたのです。法案はまだ通っていませんでしたが、JSでも急遽、大阪支社に事業部をつくることになりました。私も札幌から大阪支社工事課に配置換えになり、 4月に法案が通って事業部調整課ができて配属されました。
 それからは認可変更の資料をつくったり、要請団体に要請書の提出を求めたりといった仕事をしました。当時の自治省には事業化に反対するような雰囲気もあり、広域汚泥処理のメリットをきちんと説明する必要がありました。また、エース事業に関する都市計画決定は、流域下水道の都市計画決定に位置付けることが急遽決まったため、兵庫県の揖保川流域と武庫川流域の都市計画決定の変更資料の作成を行いました。また、アセスメント的なことも必要になり、フェニックスから基本データをいただいて、なんとかやり遂げたという思い出があります。昭和61年の当初予算の50億円で兵庫東の用地を買い、昭和62年には大阪南と大阪北東の都市計画決定の変更手続きが始まったという時期でした。要請団体からすれば、エースでどれだけ汚泥を処理できるか、どれだけ安く処理してもらえるかが関心の中心でしたが、計算のたびに経費が上がっていくような気がしていました。

重富:理由はよくわかりませんが、当初要請団体と約束していた数値からどんどん乖離し、最終的には5割近く違ってくるような事態になったと記憶しています。

鈴木:当初の計画が相当大掴かみだったため、精査し必要なものを具備していくと、結果的に建設費がどんどん膨らんでいったのです。
 また、当時、JS は受託事業での下水道施設の設置は可能でしたが、エース事業では産業廃棄物の処理業と運搬業の許可を地域毎に取らなくてはいけないのではという疑念があったことで、万が一に備えた準備としての書類の作成にも多くの時間と労力をかけ苦労しました。紆余曲折はありましたが結果的には、処理業の許可だけで済みました。

佐藤:下水道法は特別法だから廃掃法の適用は受けないというのが当時の建設省の見解でしたね。しかし、エース事業は自治体ではなくJS が行うので必要だということになり、慌てて許可を取ったのです。都市計画決定の方法も、廃掃法の取扱いも決まっておらず、すべて手探り状態でした。

重富:法改正されていなかったのは用地関係にもありました。兵庫東は、もともと流域の用地になる予定でしたが、埋立地でまだ県が買収しておらず、埋立地に廃棄物を搬送する法人が土地を持っていました。その法人には、土地を売ると当然、所得税がかかるわけですが、これを免除してもらう法律改正がありませんでした。もちろん料金に関する規程もありません。手探り状態で、「走りながら考えるんだ」なんて鈴木さんが言っていたのを覚えています。

大阪南エースセンター(3号炉火入れ式)
大阪南エースセンター(3号炉火入れ式)

村上:エースのような事業の構想はかなり前からあり、久保赳さん(第 3 代理事長)が自身の人脈などもフル活用して進めたと聞いています。また、エースには財投資金も入っていましたが、これは、 JS 創設時からの悲願で、いずれは道路公団や住宅公団のように財投資金を導入した公団に昇格したいという想いがあったようです。

橋本:定款や業務方法書の改正、組織体制の整備などでのご苦労はありましたか。

北出:関係法令について、毎日深夜まで勉強していました。組織体制については、大阪支社に事業部をつくり、そこに建設課、調整課をつくらなければなりませんでしたが、何とか恰好だけは整えたという感じでした。後になって事業部調整課に異動になった際、組織規程について「こんなものをつくったのは誰だ」って自分で言った覚えがあります。
 先ほどもお話がありましたが、用地を非課税にするため、自治省に地方税法改正の法案をつくって持ち込みました。その際、エース事業の概要やメリットについての説明も必要で、時間も午前 2時とか3時頃になり苦労しました。法案がそのまま通った時は非常に嬉しかったのを覚えています。

橋本:事業要請はスムーズに進みましたか。

佐藤:兵庫も大阪もだいぶ遅れたと思います。料金などを合意するまでは出さないのです。早く基本計画書をつくれと言われましたが、事業要請がないと前に進めないのです。

北出:事業要請書は遅かったですが、建設協定自体も非常に遅く、審査に回ってきたのはかなり後になってからでした。決まった日程で工事着手しないと計画通りに供用開始ができないと言われましたが、協定の中身にはいろいろと問題が多かったですね。協定の内容が要請団体の主張に偏りすぎではないかと感じていました。

橋本:大阪支社の事業部の様子はどうだったのでしょう。

佐藤:建設課は設計から発注までを、調整課は対外的な対応をしていました。部長は兵庫県出向の村田さん、調整課は兵庫県出向の藤田さんが課長で、重富さんと私と4人ぐらいでした。建設課は大阪府出向の木村さんが課長で、課長代理が建設省出向の小林一郎さんとプロパーの松井清さんでした。

鈴木:途中から、後に本省の下水道部長になられた松井正樹さんに替わられました。

佐藤:あとは土木、建築、機械、電気の担当もそれぞれいましたし、最盛期には相当増員されました。

北出:大阪支社に事業部をつくる際、設計第五課を廃止しました。昭和 50 年代後半、緊縮財政と円高不況の影響で受託事業費が落ち、昭和 59 年には1200 億円くらいになっていました。そこで自主事業のエースに本腰を入れたわけです。ところが昭和 61 年になると、政府の緊急経済対策で受託事業費が伸び1500 億円近くまで上がりました。そこで、設計第五課から定員を移すのにいろいろ議論もあったのですが、なんとか事業部調整課と建設課を設立させたことが今も記憶に残っています。

海を用地買収する

橋本:用地買収について、詳しくお話いただけますか。

重富:一番大変だったのは兵庫西で、指定された場所が海だったのです。その土地を買ってこいと言われて、どうやって海を買うのだと思いました。また、資金はどうするのかと聞くと、予約買収だからいらないと言われたことを記憶しています。JSにはそれまで自主事業がなかったため、用地関連の仕事がなく、規程もありません。地方建設局で用地の規程を借り、それを参考に契約書をつくった覚えがあります。
 兵庫西の用地は県の企業庁が管理していましたので、用地買収に係るトラブルはなかったのですが、やはり売るほうは高く売りたい、買うほうはできるだけ安く抑えたいわけです。結局、予算内で買うしかありませんが、決まるまでは大変でしたね。
 大阪南は流域で府がすでに施設までつくっていましたので、用地買収の苦労はなかったと思います。ただ、地元の忠岡町から固定資産税と都市計画税を課税すると言われました。免除できる規程がなかったのです。

供用開始時の兵庫西エースセンター立地状況
供用開始時の兵庫西エースセンター立地状況

北出:それで、急遽 62 年に企画総務部に用地担当調査役を設置しました。当時は今と違って、簡単に役職をつくったりすることができない時代でした。

村上:当時は定員の縛りが本当に厳しくて、監理員を1 人増やすのでも理由をたくさん書いた書類を用意して要求するようなことをやっていましたからね。

橋本:供用開始に向けて、計画汚泥量についてもいろいろな調整があったかと思いますが、その点についてはいかがですか。

村上:要請団体が決めた要請汚泥量というものがあって、かなり多めに見積もっていましたね。それをベースにするため、施設に見合う汚泥量が入って来ませんし、収入が少なくて非常に苦しかったです。要請汚泥量をもっと現実的なものにしてほしいとお願いしましたが、枠はとにかく確保しておきたいという意向が強かったですね。

橋本:次に建設関係ですが、事業要請を受けてから、非常に短期間で建設が行われましたが、そのあたりの話をお願いします。

金井:私が関わったのは送泥管の設計と布設です。また、エースセンターに貯泥するためのストックヤードの施工管理にも関わりました。それと溶融炉の管理が主な業務でした。

鈴木:兵庫西の建設は、先ほども出てきましたが、用地の埋め立ても十分なされていない状態で、本当に3年で供用するのかと思いましたね。しかも、ちょうどその頃、関西国際空港の供用開始も迫っており、ゼネコンもプラントメーカーも職人さんの引っ張り合いをしていました。工事が途中で止まることもあり、いろいろ対応に苦慮しましたが、最終的に予定どおり供用開始できました。後になって某大手プラントメーカーの重役の方が役員会議で「役所が困っておられるのだから、なんとかやってあげてほしい」と言われ仕事が進んだと聞いたことがあります。運が良かったです。

橋本:埋め立てる前の状態から供用開始まで3年程度ですか。

鈴木:そうです。一番多い時は300 人ぐらいの人が現場で動いていました。それでも大変なスケジュールでした。最後の頃は1人で事務所に泊まり込んで、溶融炉の試験運転などをメーカーの人たちと夜中までかかってやっていました。供用直後には、出滓口から溶融スラグが出ないと言われて、1 日に3度も大阪支社から姫路市網干区の兵庫西エースセンターまで通ったこともあります。そういう経緯もあり、メンテナンス業者の方たちにも塩基度調整やスラグ出滓の操作に熟練してもらって少しずつ稼働率が上がるようになりました。

兵庫西エースセンター
兵庫西エースセンター(世界最大規模(当時)の
下水汚泥溶融炉2基)

村上:確か松井清さんが、姫路市のポンプ場の皮革汚泥を使って、実験用の周回送泥管路でグルグル回す運転調査を行い、長時間の送泥ができるようになりましたね。

鈴木:送泥関係の空気抜きの特殊なバルブもその時の実験で開発され実用化されました。その後は、全国に普及して今でもあちこちで活用されています。

村上:兵庫東から六甲山の向こう側の下水処理場まで送泥管を通す工事で、ゴルフ場の下の岩盤をトンネルボーリングマシンで抜く工事をしていましたね。かなりの難工事だったと聞いています。

鈴木:当初はトンネルを掘る予定ではなく、国鉄の廃線に送泥管を通すはずでしたが、その途中にダムがつくられることになり、水没し維持管理ができないということで、急遽トンネルを掘ることになったのです。

橋本:兵庫西の溶融炉は、当時東洋一と言われていましたね。

鈴木:1炉当たりの溶融炉としては世界初の40tDS/ 日(脱水汚泥(ケーキ)基準では300t/ 日、ガス量基準で350t/ 日)の規模と記憶しています。加えて、排熱量が膨大で、汚泥の乾燥利用だけでは勿体ないことから、常用の廃熱回収発電(当時国内最大規模:2,000KVA)を具備し、創エネルギー化を図りました。

金井:最初2基つくって、その結果を見て3基目をつくりました。

橋本:なぜ溶融炉が採用されたのでしょうか。兵庫西は皮革排水のクロムの影響などもあったのかと思いますが。

鈴木:兵庫東は脱水汚泥中に数千 ppm オーダーの濃度の三価クロムの含有が予想されたので、その六価クロム生成抑制対策として乾留炉が採用されましたが、兵庫西は脱水汚泥中に数パーセントオーダーの濃度の三価クロムの含有が予想され、乾留炉程度の還元雰囲気での灰化は、六価クロムの生成を十分に抑制できないため、高温(概ね1,800℃程度)で強力な還元雰囲気下で汚泥を灰化-融液化-固化が可能なコークスベッド溶融炉になりました。他の旋回溶融炉や表面溶融炉では、還元雰囲気、温度的にも対応が難しかったのです。

村上:エース事業は、汚泥を有効利用し、できた製品を売却して財投を償還する計画でした。その頃、下水汚泥の溶融技術がいろいろ出始め、建設資材利用であれば溶融がぴったりだとメーカーも熱心に売り込んできたようです。ただ、建設資材を売却して収入を得るまでにはいかなかったですね。

橋本:送泥管の布設についてはいかがでしょう。トンネルを掘ったり、流域の幹線管きょ内に添架したりで、結構大変な工事だったのではないかなと思いますが。

金井:硫化水素により送泥管が腐食するため、当時、それなりの管材を選んで施工したと思います。しかし、供用後半年か1年くらいで腐食し、汚泥が10m くらい吹き上がったことが2回ほどあったと思います。幸いにも民家のない地区での事故だったため人災には至りませんでしたが一歩間違えば大事故でした。構造的な問題でしたが、対応には苦慮しました。

橋本:大阪南の送泥管の工事では、ちょうど「だんじり」を引く道路に管を通すため、岸和田だんじり祭りの間、工事ができないといった話を聞いたことがありますね。

鈴木:あと、大阪地区は遺跡との闘いでした。ちょっと掘るとすぐに遺跡が出てくるのです。そうすると、ちゃんと調査してからでないと施工できず、工期(供用開始時期の順守)が心配でなりませんでした。

村上:事業部から本社に「今日は大阪南で遺跡調査があります」と朝電話があり、夕方に「遺跡は出ませんでした」という電話が来ることが度々ありました。

難航した料金設定と改定作業

橋本:最初に料金を決めるところは一番大変だったと思うのですが。

重富:供用も何もしていない中で、管理費がいくらになるか当りを付けなくてはいけませんでした。ところが建設課の担当者の要望をそのまま使うと、大変な高額になるのです。そこで、課長代理の松井清さんにお願いして、料金計算期間の管理費を出してもらいました。これ以上高くなるかもしれないが、今のところはこれで勘弁してくれと言われ、計算した記憶があります。

橋本:決まるまでには何回も要請団体と協議をされたのですか。

重富:そうですね。特に兵庫西のほうは、生汚泥1m3 あたり700円とか900円という数字が独り歩きしていましたので、こちらから1200 円か1250円でということをお話しても、当然納得していただけないわけです。そこで、協議を重ねて最終的には段階的に料金設定をするということになりました。料金交渉は粘り強くやるしかなかったというのが実態ですね。

橋本:その後は改定作業もあったと思いますが、どう対応されたのでしょうか。

安達:料金問題検討委員会で計算の仕方などは決まっており、見直しは3年ごとに行うルールでした。平成元年度に供用を開始した兵庫東、兵庫西、大阪北東について、平成4 年に行った改定業務を担当しました。供用して2年の実績もありましたので、物価上昇率も含めれば、建設事業費、維持管理事業費が値上がりするのは当たり前の状況でしたが、要請団体の立場を想定すれば、こちらの考える水準では提示できないだろうと考えました。しかし、3地域とも70%ほど上げないと供用開始後25年間の収支のバランスがとれなかったため、概算要求はその単価で行いました。
 その後、8月頃から各要請団体と協議を始めたわけですが、大阪北東は細かな要望が出たくらいで、ほぼ提示単価に近かったのではないかと思います。兵庫東、兵庫西は兵庫県下で同一単価のため、どうしても兵庫西に合わせなければならず、30%ほどしか上げられませんでした。
 一番苦労したのは、構想段階で決めた単価が独り歩きしていて、見込み違いなのだからJS が責任を取るべきという話をされたことです。特に兵庫西では、たびたび説明資料をつくって持って行きました。本社とも協議をし、料金の再計算をして夜に本社の広域処理管理課にFAX を入れ、翌日その結果を見て、じゃあ次はどういうストーリーで提示しようかと、そればかり繰り返していました。とは言え、予算の内示までには決着しないといけませんので、本社から計画部長に来ていただいて、なんとか決着したのが1回目の料金交渉でした。

橋本:私は大阪北東と大阪南の2回目の料金改定を担当しましたが、第1回改定時から物価はほとんど上昇しておらず、「物価が上がっていないのに、なぜ料金が上がるんだ」って言われた記憶があります。

村上:「激変緩和」という言葉をよく使っていた記憶がありますね。急には上げられないという抑制ムードがJS の中にもありました。

重富:当初、確かに激変緩和ということで段階料金を採用したわけですが、次の改定ではこれを解消しましょうといった話でした。安達さんの話では2回目も激変緩和したということですね。私が2 度目に調整課に異動した際、前任の課長代理だった花輪さんから「兵庫西の料金改定は私が全部やりましたので、課長は何も心配しないで椅子に座ってもらえばいいです」と言われましたが、実際再計算をしてみると30%ぐらい改定だという話が出てきて、大騒ぎになった記憶があります。

村上:先ほどの安達さんのお話で思い出したのですが、夜に本社へFAX が入って来ると、当時はエクセルがなかったので、ロータス1-2-3で「すだれ表(収支計算表)」をつくり印刷して、返送するということを深夜にやっていた記憶がありますね。

安達:そうですね。後に理事になられた畑田さんが本社の窓口で、本社の広域処理管理課に後に人事課長でも来られた佐藤さんがいて、「頑張っているね、大変だね」と激励してくれました。本社では、大蔵省の主計局や理財局などへの説明、特に財投の償還計画などを扱っていましたが、現地が頑張っているから、要請団体の要望に沿ってもいいのではないかと理解してくれていました。そこで夜にFAX して、朝方に再計算するといったやり方が生まれたのです。

協定締結、供用開始へ

橋本:タイトな建設工程の中で供用を迎えたわけですが、供用開始時のエピソードなどはありますか。

安達:供用前までには管理協定を締結して、料金を定めなければならないのですが、協定のひな型があるわけでもなく、供用開始前で維持管理の実績などもないので、結構不安でしたね。何をどう決めればいいのかすごく悩みました。
 管理協定の原案を作成し、本社で協定を担当する業務部の業務課長と協議したところ、「こんな恥ずかしい協定、出せない」と言われました。そこで、調整課長と一緒に会議室に缶詰になって、ひな型から起こす形で管理協定ができあがりました。
 平成元年4月に兵庫東、大阪北東の供用が決まっていたため、供用開始の時期に合わせて、ひな型をベースにそれぞれの管理協定を作成し協議しました。管理協定の中に運営協議会を設置するという条項を入れ込み、供用開始後は要請団体と一緒に運営協議会の中で基本的な事項を決定することになったと思います。供用開始が迫る中での協議でしたので、料金協議とは比較にならないほど、友好的にスムーズに締結業務に当たれたという記憶があります。

川口:重富さんが淀屋橋の別館の先に1部屋借りていて、そこで一所懸命に料金計算の仕事をしていた記憶があります。ラインプリンターで計算結果を打ち出すのに1 時間以上かかりながらやっていました。
 また、この先どんなトラブルがあるかもわからなかったため、予算費目として調査費を追加したことを憶えています。供用後に起きたトラブルの際、調査費を使って調べ、あとの処理はメーカーにお願いしました。呼び水みたいな費用でしたが、多少は面目が立ったのかなという気がしています。

鈴木:兵庫西の供用開始の頃はダンプトラックで搬入する脱水ケーキなどの中に金属片が入っており、ケーキの切出し機や搬送コンベア類の停止が頻繁に発生し、稼働率が上がりませんでした。その主な原因は、トラックの運転手の飲み終わった飲料水の空き缶などのポイ捨てと番線を含む清掃ごみ類の投入れだと分かり、何度も注意喚起を行いましたがなかなか低減しませんでした。そこで、空港にあるような金属探知装置をたくさん調達して、コンベアから落下する所に設置し、アラームが鳴ったらコンベアを止めて、人力で素早く取り除き、稼働率の向上に努めました。それでも時々稼働停止するため、そうした実情を運転手の方達に直接見てもらうことで、投げ入れ等に起因したトラブルはだいぶ減っていきました。

大阪北東エースセンター
大阪北東エースセンター(ペガサス全景)

村上:溶融炉がたびたび停止するので、役員会で稼働状況を報告する担当はかなり厳しいことを言われていたようです。

鈴木:大阪南が供用して少し経った頃、稼働率を上げようとしたら、汚泥が燃え過ぎて溶融炉が真っ赤になってしまいました。そこで、短い時間でしたがやむを得ず消防用のホースで溶融炉の表面に水をかけながら運転せざるを得なかったのを覚えています。どのエースセンターも最初の頃は、本当に綱渡りの状況が続きました。

川口:大阪北東は高度処理の汚泥だったため、返流水中に高濃度のアンモニア性窒素が含まれます。それを処理するため、当時 JS で開発した「ペガサス」(包括固定化担体を用いた窒素除去プロセス)の第1号を入れようという話になり、3 カ月くらいの突貫工事でプラントをつくりました。「走りながら考える」が動き出してからも出てきたわけです。

鈴木:乾燥機の中に火種があり、普段はファンで臭気を吸っているため、おき燃焼で大きな炎は上がらないのですが、ファンが止まると乾燥機の中は小さな炎が発生し、点検口を開けると同時に空気が入って炎が大きくなります。これを長く続けると火事になる恐れがあるため、極力ファンを停止しない運転に心がけました。
 それと、獣毛が厄介でした。乾燥汚泥を固めて炉に入れるのですが、汚泥中に膠質などが入っていると、強大なエネルギーをかけないと機械で固まらないのです。そこで仕方なく固めずに入れると、炉の中で一挙に獣毛が舞い上がってしまい詰まってしまう。こうしたトラブルが度々ありました。

金井:平成 3 年頃の兵庫西の溶融炉の主要な運転課題は、汚泥乾燥機の摩耗、乾燥機・乾燥汚泥運搬コンベアの自然発火、ボイラー・電気集塵機の飛灰による閉塞、溶融スラグの処分先、溶融飛灰の処分先等でした。塩基度調整のため砕石を乾燥機に投入していたのですが、それが高価なSUS部材を摩耗しており、その対策の検討をしていました。飛灰を外に出さないために循環溶融をすると飛灰量がどんどん増え、亜鉛や鉛が煙道に付着し閉塞してしまいます。これを直すには、飛灰を全量外に出すしかありませんが、そうすると処分費に響くわけです。飛灰の処分料は非常に高価なため、処分先として最初は北海道を検討しましたが、最終的に北九州となりました。

橋本:溶融スラグなどはどの程度有効利用されたのでしょうか。

川口:結局、大阪府の建設資材とか路盤材ですよね。ブロックのほうはあまり売れなかったと思います。自前の施設にも使っていました。

村上:建設資材売却収入で維持管理費のかなりの部分を賄う計画でしたが、なかなか達成できそうにないため、とにかくいろんな所に頼んで買ってもらっていました。本社でも建材を扱う会社にヒアリングなどもしました。リサイクル建材ということで、そこそこ受けは良かったのですが、生産量が少ないのがネックでした。扱う量が何万tレベルでないと建材としては商売にならないということでした。

急冷(水砕)スラグ   徐冷(空冷)スラグ
急冷(水砕)スラグ   徐冷(空冷)スラグ

鈴木:焼却灰とスラグを混ぜて成形して、もう1度固めると、ものすごく収縮率が小さく歩留まりのいいものになるのですが、如何せん、良質の焼却灰と良質のスラグを得ることが難しかったのです。

川口:廃棄物でつくっているので、品質管理された原料でつくるのと全然違います。歩留まりが悪く、とても商売になるような製品にはならなかったのです。

金井:骨材などに利用される高炉スラグはゆっくり時間をかけて冷やすため硬いのです。これに対して、水冷スラグは脆くて、継続的に使ってもらうことはできませんでした。また、水砕スラグは天ぷらを揚げたような形になり、圧がかかるような所には不向きでした。

鈴木:スラグをもっと細かい粉にして太陽光の発電パネルの表面に塗りつけると発電がもっと効率よくなるのではないかといったアイデアもあり、太陽光発電に前向きな自治体に売り込む話もありましたが、コストが通常の倍くらいするので、事業化するのは難しかったです。
 他に、低温廃熱の利用として温水プール、日帰り温泉施設の建設、観葉植物の生産、販売など、色々アイデアはありましたが、地の利が悪く、検討段階で終わり、実施には至りませんでした。

建設中止、収支を改善せよ

橋本:供用開始以降の課題は、経営の安定化につなげるための収支改善だと思いますが、そうした中でISO14001の取得も進めたと聞きました。

佐藤:ISOの取得は大阪南が先で、1年遅れて兵庫東でも取得しました。まずは環境マネジメントシステムを立ち上げなくてはいけないので、エー ス センターに入って来るもの、出るものを全部洗い出し、量を出して、削減目標をまとめていくわけですが、細則などすべてを文書化しなくてはいけません。マネジメントシステムを立ち上げたら環境方針を定め、毎年CO2を何%削減するといった目標を決めて、その達成度を報告するのです。兵庫東では、1年くらいかけて平成11年6月に認証を取りましたが、再認証等の維持費が高いため、認証の更新は行わないこととしました。
 当時、財投の償還ができないということが続いており、各エースの所長さんを集めた戦略会議を開いて、収支改善をしていこうとしていました。そうした中でISO 取得をやったお陰で、トン当たりの重油使用量といった原単位が分かるようになり、経営改善計画の作成やコスト削減に結びつきました。

北出:大阪南は11年5月にISOを取得しています。管理マニュアルに従ってやらなければいけないのが大変でしたが、確かに維持管理費の節約には大いに寄与したと思います。ただ、とにかく維持費が高いのです。日本では民間企業を含めて皆やめるような雰囲気がありましたね。

橋本:収支改善という状況の中で、さらに収益を確保するために二種要請なども行いましたが、そのあたりはいかがでしょう。

佐藤:二種要請というのは、皮革産業がふるわず事業をやめるところが多く、兵庫西の汚泥量が伸びないという状況だったため、新たに要請してくれるところを探したものです。兵庫県内を山口管理課長と回りました。それで上月町、三日月町などが新たに加わったのです。また、少しでも収入になればということで、ごみ焼却場の灰や病院で廃棄された注射針などを溶融炉に入れられないか検討した記憶がありますね。
 兵庫東では、西宮市、芦屋市の新規参入がありました。これは、阪神・淡路大震災で汚泥の緊急受け入れを行ったことや、両市の汚泥焼却炉が更新時期にあったことを契機に進みました。送泥管などの建設工事を行い、平成 13 年から両市の汚泥全量の受入れを開始しました。これにより収支が改善し、兵庫東は黒字になりました。しかし、その頃にはすでに、特殊法人等整理合理化計画で府県への移管が避けられない状況になっていました。

鈴木:兵庫東は、豊臣時代の伏見地震で少し動いた(阪神・淡路沖地震で動いた)ことが知られていた活断層からだいぶ離れており、阪神・淡路大震災規模の地震であれば何とか大丈夫という気持ちでつくっていました。地震が発生した頃は本社の計画部設計課にいましたが、西宮市や芦屋市にあった焼却炉が停止してしまい、相談を受けた時に「どうにもならない場合はエースに持って来ていただければ」と言った覚えがあります。

村上:現場では収支改善でいろいろな努力をされていましたが、私が本社にいたときに一番感じたのは財投の利率が当時 6%だったことです。今から考えるととんでもない数字ですよね。それが一括繰上げ償還も借換えもできないということですから、厳しいなと思いました。しかも予算要求などで理財局に行くと、収支計画がなっていないと叱られたりするわけで、大変でした。

安達:私が2度目に経営課長として行ったときも、新たな建設をしない、収支改善に努めるといった雰囲気でした。本社の役員会では、当該年度、当該月の料金収入額を報告した後、それが対前年実績と比較してどうか、料金算定上の想定収入と比較してどうか、最終的に単年度黒字を達成できているか、料金収入と維持管理費、償還利息との比較、要するに決算ベースでの当期の減価償却費用の合計を賄えているかという4指標を表にして報告していました。
 私がいた平成12年、13年頃は、大阪北東は単年度黒字を達成して、14年には兵庫東など他のエースについても単年度では黒字になっていたと思います。ただ、兵庫西は償還利息の全額を賄う程度の収入であったと記憶しています。
 調整課が経営課という組織名称に変更になったことからも、収支改善をして借金を返して行こう、エース事業の経営を立て直そうというような状況でした。

兵庫東エースセンター(焼却炉全景)
兵庫東エースセンター(焼却炉全景)

橋本:金井さんはその頃に兵庫西の所長というお立場でした。

金井:その頃は、とにかくエースで処理する汚泥量をどうやって増やすかに、ある意味尽きるのではないかと思います。先ほど話のあった二種要請のほか、緊急受け入れを実施しました。二種要請は県内からの汚泥受け入れですが、緊急受け入れは県外から汚泥を受け入れました。京都府、岡山県から受け入れました。緊急時に法の枠を超えて処理することを考えました。また、一般廃棄物の焼却灰や飛灰との混合溶融を、兵庫県環境クリエイトセンターと連携して取り組みました。そこそこの収入にはなりましたが、飛灰は焼却で飛散したものなので、溶融飛灰量が多く、ダイオキシンの管理も必要です。利益を出して事業継続するのは難しいということになりました。また、ダイオキシンのため燃料として使用できなくなったRDF(廃棄物固形燃料)の引き受けの話もありましたが、下水道法上処理料金をいただくことの法的な位置付けが難しく実現しませんでした。実際には助燃材として最低料金をいただいて処理し、自治体からは大変感謝されました。

橋本:当初は近畿圏以外へのエース事業の展開が想定されていて、かなり現実味もあったようですが。

村上:新規箇所の候補が4 カ所ありました。栃木県、千葉県、神奈川県、福岡県です。神奈川は箱根辺りで、千葉は船橋市辺りでしたが、話が前に進まないという感じでした。栃木と福岡は乗り気でした。栃木は県も熱心で、宇都宮市が当時の増山市長さんを先頭にずいぶん熱心に動いていただき、市長さん自ら用地も選定されて、案内もしていただきました。そこは現在、栃木県下水道資源化工場になっています。
 福岡のほうは、岡垣町辺りを中心に宗像市などの自治体が集まって、規模はそんなに大きくなかったのですが、話し合いの都度、前向きな雰囲気がありました。
 でも、そうこうしているうちに流域下水汚泥処理事業の構想が出てきて、6%の利子がつく財投を入れるエースと、国庫補助で面倒を見てくれるほうを比べられたら、経済的に勝負ができないわけです。いくら財投で施設を早くつくれると言っても、「いや別にそんな急がなくていい」となります。それで福岡は立ち消えになりましたが、栃木は形としては残り、今も流域下水汚泥処理事業を行っています。事業の形式は変わりましたが、構想の形が残り、地域の環境保全に役立っていると思うと嬉しいですけれどもね。

急転直下の事業移管

橋本:兵庫が平成14年度、大阪が平成15年度に事業移管されましたが、その背景や経緯についてお聞かせ下さい。

安達:国の省庁再編をきっかけに、特殊法人や認可法人を見直すという流れがあり、平成13年3月には行政改革の事務局からJSに話があったようです。私は13年4月に事業部経営課に2度目の配置換えになったのですが、まさかエース事業が廃止になるとは夢にも思っていませんでした。その年の12月に特殊法人等整理合理化計画が閣議決定され、その中でエース事業を廃止して、既存施設などは協議・調整を経た上で地方公共団体に移管することになりました。
 移管ということですから、資産も財投の借金も地方公共団体に移るわけです。しかし、財政状況が厳しい中で財投の借金も抱えるのは厳しいということで、関係団体と関係省庁で調整した結果が閣議決定後1カ月ほど経って明らかになり、移管のスキームがわかったという状況でした。その内容は、エース事業に係る資産及び財投等の債務を地元公共団体に継承する。債務の継承に際しては、地元公共団体に対して地方交付税措置を講ずるといったものでした。この負担軽減策措置があったおかげで移管できたわけです。
 また、制度として流域下水汚泥処理事業がスタートしていましたので、移管後は兵庫県、大阪府が実施する流域下水汚泥広域処理事業とすることが決まり、それを受けて、財投をどのように振り分けるかを本社の関係部署を中心に進めました。地方交付税措置については、継承する事業資産の評価額に対して実施するということでしたので、事業部では移管する地域ごとに財産評価委員会を設置して、評価の方法や財産評価に関する検証を審議していただきました。
 移管作業にあたっては、受ける側の兵庫県や大阪府の実施体制づくりも大変だったという話を当時兵庫県からの出向の野事業部長、あるいは大阪府からの出向の大屋事業部長から聞いていました。兵庫県については、平成14年度末に移管しましたが、実施体制が整っていないということで、15年度に限りJSが維持管理を受託して実施しました。大阪については、15年度末に移管しましたが、維持管理の受託はありませんでした。

金井:私はその頃、行革担当の方を現場に案内したのですが、その時はエースのことを評価してくれていたのです。非常にいい事業じゃないかと。ですから、前向きな結果が出ると思って疑わなかったのです。ところが出てきたのは全く反対だったので、非常に憤った憶えがあります。事前に答えがあって現場に来ていたんですね。

北出:私は資金課で財投を担当しており、収支などを説明する立場でしたが、兵庫西以外は絶対黒字化されるから継続しても大丈夫と言っていました。しかし、本社では兵庫西ばかり取りざたされ、すでに移管に傾いていたのです。12 月 18 日の閣議決定は、地方に委ねるものは地方に委ねるという、特殊法人改革の原則に従って行われましたが、それならJS も地方共同法人になったのだから移管の必要はなかったのではないかと今でも思っています。エース事業の立ち上げからそれまで、一言では片づけられないほどの苦労を皆がしてきたのですから。

座談会風景
座談会風景

橋本:エース事業の移管についての想いなどがあればお聞きかせいただけますか。

村上:その当時、本社で援助課長をしていましたが、ある日、当時の安中理事長に呼ばれ、「実はエースプランを手放すつもりだが、現場で頑張ってきたプロパーの職員たちはどう思うかな?」と聞かれ、「苦しい中何とか頑張ってきたので、残念に感じる人も多いとは思いますが、理事長の判断であれば、また別のところで頑張るしかないですね」みたいなことを言った記憶があります。理事長も手放すことについてはかなり悩んでいたのではないかという気がしますね。

重富:私も当時の経営企画部長の馬渡さんに「君が反対したらみんな反対するから反対しないでくれよ」と言われましたね。JS はとにかく一つ事業を捨てなければならなかったのでしょう。一般業務勘定(研修、試験研究)は捨てられないので、存続のためには建設業務勘定(エース事業)を諦めるしかないのだろうと思いました。

エースの精神「為せば成る」を未来へ

橋本:では、最後になりますが、皆様から現役職員へのメッセージをお願いします。

川口:エースの経験から考えると、課題があるから発展があるのだと思います。発展がないと組織は消滅するしかありません。自分から課題を探す、試行錯誤する、そういうことが必要なのだろうと思っています。そして、やはり直営事業を持つことが大事です。直営の現場があったからこそ現場の声を肌で感じられます。それが仕事の原点であり、それを最大限活かして業務を展開されることを期待しています。
 昔は図書館に通って資料を集めましたが、今はネット検索すれば世界中の情報がいくらでも入ってきます。そういう環境の中で、積極的に問題解決に当たってほしいと思います。エースは、大変な苦労もありましたが、喧々諤々、みんなで議論する楽しい職場でした。今、これまでの経験をもとに、使用料を取れないような途上国で、農業利用などで運営費を自ら生みだせる、生産型下水道システムを普及させたいなと考えています。私はこれに勝手に「エース2」と名付けていますが、 JS にも新たな下水道の構想を創り上げていただきたいと思います。

安達:エース事業に携わったOB としては、決して経営とか事業内容が原因で廃止したわけではないので、エース事業で培われたノウハウを、これからも業務に反映していただきたいと思います。私は事務職で調整業務が多く、要請地方公共団体の方々といろいろな課題でぶつかりました。けれども、誠心誠意対応したら解決できたことが多かったと今でも感じています。JS は昔から少数精鋭の組織で、業務に追われ忙しいと思いますが、現役職員の皆さんも仕事上のトラブル等が発生したときには、誠心誠意の精神で対応すればきっと解決できると思いますので、それを忘れずに頑張っていただければと思っています。

重富:今でもJS は新しい事業に次々と挑戦していると思いますが、新しい事業はそれなりにみんな苦労があります。けれども、そういう時にみんなで力を合わせて苦労すれば何とかなりますし、またそれが何らかの形で自分たちの力となって残っていきます。エース事業がそれを証明していますので、ぜひ前を向いて頑張っていただきたいと思います。

村上:最近、IoT とかAI、DX といったいろいろなキーワードが乱れ飛んでいます。ですから、そういったものに自分がどう対応したらいいのか、どこに進んだらいいのかが見えづらくなっているのではないでしょうか。でも、きちんと先を見れば、拠って立つところは自分の仕事で得た経験、それから自分で学んだこと、考えたこと、やったことなのです。これらをしっかり蓄積して実力をつけることが大切です。それがあれば、JS の次の50 年も皆さんの力でしっかり頑張れると思います。
 それから、皆さんには下水道の専門家になっていただきたいのですが、ただ下水道だけを見ていればいいわけではありません。水環境にしても水インフラにしてもいろいろな事業があります。例えば、供給するほうの水道、排水だと農業集落排水や工場排水などもあり、廃棄物もありますから、そういった他の分野にも興味を持って情報収集をして、それを力にしていってください。

金井:自分がやりたいと思うことを、自分自身ではっきりさせること。これが何をやるにも必要なのではないかと思っています。その上で、やるときにやはり頑張りが必要です。できるだけ強い意思を持って事に当たることを心がけてください。

佐藤:汚泥処理はスケールメリットが大きく働くと思っていますので、個別に処理するよりも、エースは非常に有効性が高かったと思います。ただ、なぜこんなに料金問題で苦労しなくてはならなかったのかと、今でも思うことがあります。しかし、エースがあったことで直営の経験ができ、とても有益だったと感じています。実施設なので危機管理が必要ということもあります。そうした経験ができますので、新たな事業を起こす際には、若い皆さんも積極的に参加していただきたいと思います。

鈴木:エース事業という直営事業では、現場が直接目で見えて、肌で感じることができました。今は、磐田市の磐南浄化センターだけになっていますが、やはり現場で起きる事象とか、装置の一つ一つ、水処理としての活性汚泥の状態や性状など、汚泥処理としての各プロセスから発生する汚泥の色や匂い、形状、水分の状況などを感じ、見ながら、「これは、何でこうなるのだ」と考えることが大事です。個々の仕事にしっかりと向き合って、経験を蓄積して、自分がやりたいこと、世の中に役立つことを把握して進んで行っていただきたいと思います。それを多くの職員が実践すれば、JSは下水道界の知見、人的な宝を保有する組織として確固たる地位を築き、末永く世の中に役立つことができると思います。そのためにも、磐南のような維持管理が短期間でも経験できる施設を増やしていっていただければ、より人を育てることができるのではないかと思います。各総合事務所の近くに1 か所程度あれば素晴らしいと思います。前向きな検討がなされることを希望します。

北出:手探りの中でエース事業をやってきた私たちですが、将来を信じて業務を行ってきました。道半ばにして断念せざるを得ませんでしたが、エース事業の経験は、無我夢中で立ち向かってきた先輩たちの姿勢とか、表には見えない意思といった「為せば成る」という精神をJS に残したと思います。
 JSの存在は、これからもますます必要なものになります。最近の法改正を見ても、下水道管理者の権限を代行する特定下水道工事が入れられました。頻発する災害に対して、事前の災害時維持修繕協定を結ぶことによって、相手の許可を取らずに下水道施設の維持や修繕工事ができるようになっています。それから海外インフラ展開法に基づく、海外技術援助業務も追加されています。さらには、浸水被害対策のための雨水貯留浸透施設の設計、設置工事の監督管理までに広がってきました。どうぞ現役の皆さんは、何事にも臆することなく、下水道分野では必要不可欠なJSの地位を築いていかれることを切に希望します。

橋本:皆さま、貴重なご助言、温かいご声援をいただき、本当にありがとうございます。事業移管完了からすでに18年が経ち、エース事業を経験した現役職員がどんどん減ってきています。その中で、本日はエース事業に関わる貴重なお話を伺うことができました。現在、JSでは次の5カ年に向けた経営計画の策定を鋭意進めています。その中では維持管理支援の拡大や汚泥処理の広域化・共同化といった事業への取組みなどが見込まれていますので、今日のお話は非常に参考になるものと考えています。本日は、長時間にわたりありがとうございました。

座談会を終えて

西日本設計センター長 橋本 敏一
 下水汚泥広域処理事業(エースプラン)は、1986(昭和61)年の事業着手から約35年、兵庫県(2002年)および大阪府(2003年)への事業移管完了から約20年が経過し、エースプランに携わった現役の職員もわずかになりました。
 本座談会で語られた諸先輩方のエースプランにおける様々なご経験は、広域化・共同化や資源エネルギー利活用、維持管理支援など、今後のJS業務の新たな展開に対して多くの有益な示唆を含んでいると思います。

下水汚泥広域処理事業(エースプラン)の概要
・昭和50年代以降の急速な下水道整備に伴い、処理場から発生する汚泥の処理費用の増大、処分地の確保難は深刻さを増し、広域で長期的な視野に立った下水汚泥処理処分事業の実現が望まれた。

・これを背景に、61年に日本下水道事業団法が改正され、「2以上の地方公共団体の終末処理場における下水の処理過程において生じる汚泥等の処理」をJSが事業主体となって実施することとなった。

・本事業は、下水汚泥の3つの有効利用分野、農業利用(A:Agricultural use、建設資材利用(C:Construction material use、エネルギー利用(E:Energy recovery)の頭文字を取った「ACE(エース)」、また、下水汚泥対策の「切札」としての意味をこめて「エースプラン」と命名された。

・建設財源には国庫補助金と財政投融資資金が充てられ、財投資金の償還と維持管理費は地方公共団体からの処理料金及び建設資材等の売却収入等をもって充てるもので、財投資金の活用による短期間の建設、長期間(25年間)の償還による地方公共団体の負担軽減を可能とする仕組みであった。

・下水汚泥を一括処理することで、汚泥処理コストを引き下げ、下水汚泥の資源としての流通性を高め、汚泥のリサイクルを効率的に推進する点が特徴であり、大幅な減量化・再資源化を図るため、兵庫東エースセンターを除き、汚泥溶融技術が採用された。

・平成元年度からの供用開始以後、JSは事業主体として事業を実施してきたが、行政改革の流れの中で地方共同法人化され、これに伴い、14年度末に兵庫県、15年度末に大阪府に事業移管された。



図 下水汚泥広域処理事業の基本的な実施フロー
図 下水汚泥広域処理事業の基本的な実施フロー

表 下水汚泥広域処理場(エースセンター)の概要(平成13年度末時点)
表 下水汚泥広域処理場(エースセンター)の概要

図 下水汚泥広域処理事業実施箇所
図 下水汚泥広域処理事業実施箇所(平成13年度末時点)



エースプランの主な出来事
〇事業団業務への下水汚泥広域処理事業(エースプラン)の追加
・1986(昭和61)年 日本下水道事業団法一部改正(4月25日公布)により、事業団業務に下水汚泥広域処理事業(エースプラン)が追加

〇エースセンターの供用開始
・1989(平成元)年 兵庫東、大阪北東、兵庫西エースセンター供用開始
・1990(平成2)年 大阪南エースセンター供用開始

〇地方共同法人化とエースセンターの移管
・2002(平成14)年 地方共同法人化に係る日本下水道事業団法一部改正
 2002 年度末、兵庫東、兵庫西エースセンターを兵庫県へ移管
・2003(平成15)年 JSが地方共同法人として発足
 2003 年度末、大阪北東、大阪南エースセンターを大阪府へ移管



エースプランマスコット



(参照文献) 本文中の写真、概要及び概要中の図表は、一部除き、日本下水道事業団20年のあゆみ、同30 年のあゆみ、季刊水すましNo.57を参照(写真「大阪南エースセンター(3号炉火入れ式)」を除く。また、スラグの写真はJSのリーフレット「汚泥溶融システム(溶融スラグの有効利用)」(https://www.jswa.go.jp/g/g01/g4g/pdf/og04.pdf