地方共同法人 日本下水道事業団

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証言で綴るヒストリー Testimony

座談会

プロジェクト推進の大転換


~PM制度の導入と展開~

はじめに

事業管理審議役 金子 昭人
 「PMRのRの意味は何なの?」と公共団体の職員から何回も言われたことが懐かしい大転機。3文字ローマ字のPMR、PURE、WBSを誰がどこから探しだし、JSの業務にいかに構築したのか?レジェンドPMRとそれを支えた面々がおおいに語る!

〈出席者〉
飯 島    雅 氏   富士通エンジニアリングテクノロジーズ 株式会社 管理本部人事総務部
押領司 重昭氏   株式会社 三水コンサルタント 専務取締役
下 村  一 雄 氏   住友重機械エンバイロメント株式会社 水処理統括部サービスエンジニアリング部大阪技術グループ主任技師
富 樫  俊 文   日本下水道事業団 DX戦略部長
  西日本設計センター長(収録時)
畑 田  正 憲 氏   一般財団法人 下水道事業支援センター 専務理事兼事業部長
福 迫  和 也 氏   株式会社日水コン 九州支所鹿児島事務所長兼熊本事務所長
村 井  康 真 氏   立正大学 経営学部講師
森 山  正 美 氏
〈司会進行〉
金 子  昭 人   日本下水道事業団 事業管理審議役
  ソリューション推進部長(収録時)

2022(令和4)年1月20日収録

座談会メンバー

PM 制度との関わり

金子:PM 制度が導入された当時は新設や増設が多かったのですが、今や改築更新、PPP/PFI といった事業を行うようになり、私たちのように土木職で予算を経験した職員がPMR に配置されることがなくなってきました。そこで、この座談会では、当時どれだけの熱量を持ってこの制度がつくられたのかを先輩方からお伺いし、今後の展開につなげていきたいと考えております。では初めに、自己紹介を兼ねまして、それぞれの方がどのようにPM 制度に関わられたかをご紹介ください。

畑田:私は1978(昭和53)年にJSに入社して40数年勤務し、2年前に退職しました。今は下水道事業支援センターで勤務しています。PM 開始当時は、40歳くらいでしたが、業務改革の機運が高まっており、PMへの転換(名付け親は当時の定道理事長)をコンセプトに組織の改編や業務の改革を、主に事務局の役割を果たしながら担っていました。

押領司:私がJSに入社したのは1976(昭和51)年です。現在は(株)三水コンサルタントに勤務しています。私とPMの関わりは、まず1998(平成10)年の軽井沢の合宿からスタートし、その間、いくつかのプロジェクトに散発的に関与し、本格的に移行準備に関与したのが1999(平成11)年4月からPMを開始する10月までの間で、当時は移行準備室に所属していました。私の作業は主にワークフロー1)で、ひたすらつくり続けた記憶があります。それと設計コミュニケーションマニュアル2)を畑田さんの主導で携わらせていただきました。

下村:私は1998(平成10)年に堺市からJSに出向しました。PMには、1999(平成11)年当初から関わり、JS職員に転職後、退職するまでに延べ11 年ほど関わってきました。一番思い出に残っているのが、2 回目の出向のときに滋賀県の担当を約8年間連続で務めたことです。

福迫:現在、(株)日水コンに勤務している福迫です。JSには27年間おりまして、そのうち14年間をPMに携わりました。PM開始時に神奈川かどこかの宿に泊まり込みで慣れないリスクマネジメントを実践したことが私のPMのスタートになりました。最初、畑田さんがPM に必要なのは「経験・勘・度胸」と言われたことを覚えています。PMをやりたい人材を増やすということが、組織には必要だと最近になって特に感じています。

森山:私は1977(昭和52)年の入社ですが、PMに携わったのは、金子部長と一緒で2000(平成12)年4月からでした。PMが始まるときに一番印象に残っていたのは、理事長がPM制度を導入して組織を変革すると言っておられたことです。そのあとPMには職種を選ばず、技術職でも事務職でもいいと説明があったのも印象的でした。最初は、PMは土木職が、設計部門と管理部門に分かれることで、PMRになっていくのだと思っていましたが、話を聞いて「そうじゃないんだ」と思いました。確かに職種は機械職、建築職、事務職と多岐にわたっていたので、そういう構成でPMを導入していくということを、当時強く感じたことが記憶に残っています。

村井:立正大学経営学部で教員をしております村井です。私は、早稲田大学の助手時代にJSのPM制度の導入に関する研究で1995年(平成7)に博士号をいただきました。現在は、戦略経営に関する講義のほか、プロジェクトマネジメントの演習科目を担当しています。

飯島:元日揮情報システム(株)におり、現在は富士通エンジニアリングテクノロジーズ(株)に勤務しています。私は、1985(昭和60)年に日揮に入社して、ちょうどその頃、日揮では海外の大型プロジェクトに本格的にPMS(プロジェクトマネジメントシステム)の適用が始まっていました。そして、ようやくプロジェクト管理システムのことが分かってきた頃に富樫さんに声をかけていただきました。最初はデータモデリングツールを使ってデータの管理構造を分析するお手伝いをしていましたが、その後、PMSの導入に関わらせていただきました。

富樫:現在は西日本設計センターに勤務しています。当時、情報システム推進室に在籍し、PUREの開発とかPMの導入に関わっていましたので、そのときの思い出も交えてお話しできればと思います。

1)ワークフローとは、PM方式における業務処理の手順を記述したもの。プロジェクトの参画者の役割、手順及び意思決定のプロセスを示したもの。
2)設計コミュニケーションマニュアルとは、設計段階におけるJSの設計担当者と設計コンサルタントとの意思疎通や情 報伝達の仕方を改善することで、設計成果品の品質向上を図ることを目的として作成された。本文では「コミュニケーションルール」として言及されている。

PURE システムの開発

金子:最初に、PUREシステムの開発のきっかけと経緯について富樫センター長にお聞きしたいと思います。

富樫:1999(平成11)年10月にPM制度が導入されましたが、ちょうどその3年程前、1996(平成8)年7月にJS再構築基本構想 3)を制定したのが一番のきっかけだと思います。この構想は、当時プロパー職員のリーダー的存在であった松井清さんが情報システム推進室長を務めており、機械職の佐藤徹さん、現在監事をされている植田さん、国際戦略室にいる今島さんと私の5人でこの構想をまとめていきました。
 当時はJSの事業費がどんどん増加していて、箇所数も増えていたことから、これまでの仕事のやり方では回らなくなってきていました。何らかの業務改革が必要とのことで、JS全体を巻き込んで、再構築基本構想をつくり上げたわけです。
 ただ、構想の段階では、まだPMという考え方はまったく念頭になく、CALSを主眼に置いていました。しかし、あくまでもコンセプトだけで、具体的な実現方法までは検討できていませんでした。半年くらい途方に暮れていたのですが、セミナーに参加したり文献を読む中で「データモデリング」という手法を発見し、そこでIDEF1X 4)という、BPR(ビジネスプロセス・リエンジニアリング)のモデリング手法をたまたま見つけました。そしてIDEF1Xが表記できるERwin(アーウィン)という日揮情報システムが販売しているソフトがあることがわかり、それを購入しました。その時に飯島さんが説明に来てくれて、一緒に概念レベルのAs-Is 5)モデルをつくり始めたのがきっかけでした。

PUREシステムとは
・プロジェクトマネジメント方式による業務運営の支援ツールとして開発されたシステムであり、 PUREと命名された。
PURE:Project Management System for Upgrading and Realizing Earned Value Concept
・プロジェクトマネージャー(PMR)が、受託案件(プロジェクト)のコスト、工程等に関する計画と計画に基づく管理を行うための、プロジェクト運営の支援システム(PMS)である。
・JS では1996(平成8)年からJS 内の情報化として、職員一人にパソコン一台の配備やイントラネッ ト 化などに加え、業務フローの効率化と業務品質の向上を目的に、業務用ソフトウェアの導入が進められた。顧客情報システム、ドキュメント管理システム、積算援助システムとともに導入されたのがPUREであり、これらはデータ連携を行う設計思想となっている。

3 )JS 再構築基本構想は、当時の情報システム推進室による業務分析やJS のあるべき姿の検討成果をもとに1996(平成 8) 年7月に策定された。JS の業務改革の方向性と基本的な考え方を整理したものである。
4 )IDEF1X(Integration DEFinition for information modeling):データベースは情報が必要なときに必要なデータを簡単 にとりだすことを目的にしたシステムである。IDEF1X はE.F. コッドが集合論と述語論理に基づいて考案したリレーショ ナルデータベース設計技術を基にしたデータベース設計ツールである。IDEF1Xでは系(システム)内で扱われる全てのデー タ項目は識別され定義される。また、データ活用を阻害する同音異義語、異音同義語などを含む冗長なデータ項目を排除することができる。
PMS のようなデータの高度利用を目的にしたシステムでは、データ利用者のデータ活用ニーズを基にIDEF1X を使って設計される概念データモデルをもとにシステムを設計し開発する。
5 )As-Is モデル 最初に業務分析を実施する際に作られる,現状の業務を表したモデル。なお、現状、今ある姿の意味のAs-Is に対し、目指すべき、あるべき姿のモデルはTo-Be(モデル)といわれる。

飯島:1996(平成 8)年の年末、JS で納会をやっている最中に呼ばれたのです。そこで「年明けから来てください」と言われて仕事がスタートしました。富樫さんのお話のように、システム開発というと業務フローモデルから着手するのが通常ですが、日揮のPMS の開発では、プロジェクトマネージャーのデータ活用ニーズによるデータモデルを基に開発する手法を採用しました。その後米国でモデリングツールが開発され、旧日揮情報システムが国内での販売を始めた頃で、たまたまそれが富樫さんの目にかかって、仕事を一緒に始めることができたということです。

富樫:飯島さんに出会えなかったら、PUREもPMも導入できなかったのではないかと思っていますので、偶然とはいえERwinを見つけて飯島さんが来てくれたのが、大きなきっかけだったのではないかと思っています。

金子:そのソフトを富樫さんが見たとき、どのようなところを見て「うまくいくんじゃないか」と思われましたか。

富樫:IDEF1Xは、データベースのモデリング手法なのですが、それを使うことで業務ルールやプロセスをデータベースのかたちで表現できると思いました。それまではどちらかというと、スペック情報などがデータベースというイメージでしたが、IDEF1X ではプロジェクトを運営するためのダイナミックな情報が、うまくデータベースのかたちで表現できたのです。これなら理事長、副理事長が目指す業務改革に役立つのではないかと思いました。また、日揮はPMの第一人者的なところもあったので、そこも大きかったですね。

飯島:元々、PMは民間企業から出てきたものではありません。スタートはアメリカの国防総省とかNASAからで、要は国家戦略だったのです。それを我々民間が移植して活用するようになりました。予算制度はアメリカと日本では違いますが、基本的な考え方は似ているので、非常にすんなり入っていけたという印象はあります。
 それから、先ほど森山さんがプロジェクトマネージャーは別に専門職でなくてもいいとおっしゃっていましたが、日揮に入社したときに「T型人間でなくてΠ(パイ)型人間になりなさい」と教えられました。エンジニアリング会社の組織は工学部の全部の学科で構成されており、プロジェクトマネージャーの役割は、仕事の進め方が異なる専門技術者を目的に向かってどのように足並みをそろえさせるかにあるということですね。 JSは、職種の構成も日揮の体制に近かったかなと思っています。

金子:PM業務は経験が重要であるため、事務職でも長く勤務している職員は、土木職と同等の技術はないのですが、事務職なりのノウハウで、若手の技術職よりも力があるかなという感じはしています。

飯島:その通りだと思います。プロジェクト管理に最も大事なのは、プロジェクトの制約条件を押さえることです。汚水の特徴や処理量、水処理方法の選択といった技術的な条件や、関連する法律や法規、標準などです。PMR は数多くある制約事項の中でプロジェクトをどうやって運営していくかという能力が求められるので、事務職も候補になるということは納得できます。

金子:では、どのように原型をつくったのかを教えてください。

富樫:手書きで書いた棒グラフ 6)を徹底的に分析して、PUREシステムをつくり上げていきました。この棒グラフには、実は思った以上に様々な情報が含まれているのですが、それを丁寧に分析してモデルの骨格をつくりました。そこに、公共事業を実施するJS の特徴である年度ベースでの管理のために、従来使用していた事業計画システムを載せました。棒グラフに事業計画システムを追加したものがPUREシステムの原型と言っていいのではないかと思います。

6 )棒グラフとは、プロジェクトの予算と期間を管理する図表。

飯島:JSのPMSで何が難しいかと言うと、年度ベースの管理が必要なことです。普通のプロジェクト管理には年度予算という概念はなく、基本は図面を工程表に落とします。その上にコストが乗っていて、それをどう執行していくかを考えればいいのですが、公共事業の場合は、そこに年度予算の概念を入れなければなりません。そのため、JSのシステムは民間企業のものより一階層深いのです。そこが非常に苦労した点です。

富樫:当時はマイクロソフトプロジェクトという、ガントチャートをかける市販のソフトもあったのですが、それは使いづらく、基本的にすべて開発していきました。

金子:PUREシステムは最初すごく扱いにくいイメージがありました。私たちが入社したときに棒グラフを書く練習をさせられて、毎回、予算や期限が変われば消しゴムで数字を消したり、棒を伸ばしたり引っ込めたりしていました。しかし、 PUREシステムは下から積み上げていくもので、棒グラフは上から下に流していくものでしたから、どうしても頭の切り替えが難しかったのですが。

富樫:扱いにくいのは、データベース重視だったからかもしれませんが、基本的にはJSのビジネスルールをそのままシステムに置き替えたというイメージなので、手書きでしていたことがそのままシステムになっています。工事ではなくてワークパッケージ 7)という工事の明細を見ていくという畑田さんのマネジメントの発想が入ったものだったと思います。

7 )ワークパッケージとは、作業分解構成図(WBS:脚注 9 参照)を作成する際にプロジェクトの作業を分割できる最小ユニットである。

畑田:確かに富樫さんから「処理場建設の全体計画」を今までやってきたとおりのやり方でやってみてほしい」と言われたので、棒グラフ(全体計画)を作りながら説明したことを思い出しました。自分が担当するプロジェクトの数年後の完成状況とそのためのすべての作業を見通して工事などの発注を考えていたと、説明した記憶があります。

富樫:PUREのその辺りの考えは、畑田さんというPMのベテランのノウハウを結集させるような発想でつくっていました。

金子:下村さん、最初にこのシステムを使ったとき、堺市などではこのようなことは全然行われていなかったわけですよね。どのような印象を持たれましたか。

下村:当時、堺市だけでなく他の官庁でもこのようなシステムは使っていなかったと思います。最初は扱いにくかったですが、設備職の私からすると、マニアックとまではいきませんが、だんだん使いやすくなりました。

金子:建築職の福迫さんや土木職の森山さんはどうでしたか。

福迫:当時は富樫さんがいて、何でも聞いて、何でも試していいよと言われていたので、何回もトライしていったら、思った以上に動けるシステムだと感じました。みんな棒グラフをつくるのに時間がかかっていましたが、私は「こんなに早くできるんだ」と思っていたので、PUREシステムのおかげで予算管理の時間を短縮することができるようになりました。

森山:私はPM になる前に工事課にいて予算管理だけをやっていて、そこで予算管理のシステムが動いていたのです。そのシステムがほぼ同じ形で移植されていたので、ほとんど違和感はありませんでした。今まで棒グラフをつくるために嫌というほど打ち込んできたのが、必要なデータを入力するだけで棒グラフが出てくるので助かったという印象があります。
 PMRとして着任する前の半年間、九州のデータを1人で50カ所くらいPUREに打ち込んでから東京に異動しました。東日本設計センターに着任したときは、もうPUREの操作は問題なくできるという状態でした。

金子:PURE には画期的な機能がついていて、予算要望のデータをNEWSWEATS 8)(JS が構築している積算援助システム)から入れ込んでいくと、予算要望額が出来上がるようなシステムになっていました。私もトライしてみましたが、難しくて途中であきらめたことがあります。

富樫:PMRとしては、工事費をどう管理するかということも大きなテーマでした。何とかPUREとNEWSWEATSを連携させたいと思って、その仕掛けとしてNEWSWEATSのほうにWBS 9)の施設WBSコードを埋め込むようなところまでは行いましたが、WBSコードで工事費を読み込む運用がうまくいかなかったので、ちょっと残念としか言いようがないです。結局、今はその機能は無くしていますが、PMRとしては工事の明細よりも工事全体を見る傾向が強いので、細かいレベルでお金を管理するシステムは必要ないのではと、改めて思います。
 ただ、その工事の中身を理解することは重要なので、初沈の機械設備が入っているとか、反応タンクが入っているとか、そういった工事を説明する、いわゆるスコープマネジメントの機能としてワークパッケージが使えればJSには適しているのではないか思います。

8 )JSにおいて導入している、積算業務の省力化と積算ミスの減少等を目的とした電子計算機による工事費積算の援助シス テム。(New Japan Sewage Works Agency Estimation Assist System)
9 )WBS(Work Breakdown Structure;作業分解構成図)とは、プロジェクトの成果物を定義、管理、計画するために使用されるプロジェクト管理に欠かせないワークフレームである。

金子:村井先生は、学生に授業でPMを教えていると思いますが、このようなシステム的なお話をされることはあるのですか。

村井:システムそのものの運用や操作は、教えていません。エクセルでバーチャートが少なくとも描けるとか、ネットワーク図の話であるとかWBS をつくるという部分を教えています。授業の課題であるプロジェクトそのものが、失敗の許されない就職活動になっているので、学生も真剣に取り組んでいますね。

金子:PUREと契約システムのSLIMとの連携機能追加で、工事名などのチェックが省略できるようになり、業務削減につながりました。JSは新型コロナウイルス感染拡大防止のため、在宅勤務を実施しているのですが、Web化のおかげで、在宅でも業務できています。

富樫:やはりきっちりデータベースをつくったことが大きいのです。先ほど森山さんもおっしゃっていましたが、PUREの前に事業計画システムがありましたが、年度末の精算にシステム会社の人がやって来て、3日ほどシステムを全部止め、力技で精算処理をして翌年度の事業計画ができるというやり方でした。しかし、PUREはきっちりデータベースをつくったので団体ごとに精算や翌年度の事業計画を作成できるようになり、PMRに異動があった場合、異動前に翌年度の事業計画を作成できるので、年度当初のPMRの仕事量は大きく減ったと思います。

まずは「知ってもらうこと」から

金子:PM 制度導入前の設計・積算は4課体制で、各課に土木、建築、機械、電気の4職種が配属され、土木職が予算管理や団体の窓口業務も担当していた体制でした。導入後は、職種ごとの課に編成されて、さらにそれをコーディネートするPMが別の組織として出来上がりました。畑田さんからPM制度の導入の経緯をお伺いしてもよろしいでしょうか。

畑田:確か1997(平成9)年4月に、当時のタスクフォースの情報システム推進室に呼ばれました。おそらく富樫さんがデータを分析しながら徐々にPMのイメージをつかんできた時期だと思います。その頃、ちょうど経産省の外郭団体がPMに関する研修を行うという新聞記事が掲載され、それを見て、自分たちの仕事の仕方に似ていると直感しました。
 その後、日本プロジェクトマネジメントフォーラムというその後PM協会の前身となる機関が設立され、話を伺ったり研修に行ったりしていました。その中で、欧米におけるプロジェクトマネージャーの仕事は、JSでいう予算管理や契約までの段取り、工事発注、引き渡し時の検査や管理といった全工程を把握する、かなりの権限と責任を持っている存在だと理解しました。
 一方で、JSでは土木屋の雑用のような雰囲気があって、これは何とかしなければと思いました。しかし、PMは見様見真似で、しかも独力で取り組まければならず、先輩からの指導もありません。ならば、欧米の知識をうまく活かしながら業務改善に活かそうと考えたのが始まりだったと思います。

押領司:私は、移行準備室でワークフローを主に制作していましたが、そのワークフローは、PM制度の導入によって具体的にどう業務が動いていくかを職員に説明することが大きな目的だったのではないかと思います。PM 制度がスタートすれば、いちいちワークフローを見ながら仕事をするのではなく、スムーズな導入のための主体がワークフローだったと。システム推進室の畑田さんや松井さんと一緒に設計センターや各総合事務所を回って説明しましたが、すでに方針決定されていたので、その場での反対はありませんでした。

金子:業界にも説明に行かれたのですか。

畑田:建設関係やコンサルタントの業界団体、先端技術センターや雇用・能力開発機構等に押しかけて説明しました。これには実は狙いがありました。一般職員にPMの知識やテクニックを説明してもPMの良さはうまく伝わらないと思ったので、JSの取組みの素晴らしさをまずお客様に興味を持ってもらい、そこから「何をやろうとしているの」とJSの担当者に問いかけてもらうというようなシチュエーションを作ろうと考えていました。やがて、委託団体や関係者から説明を求められた時に、当事者となって説明することで、おのずとPMを理解し、意識改革されているはずだと考え、とにかく喋りまくりました。当時は週に1回は講演会などに行っていたと記憶しています。

金子:PMの導入効果の狙いとしてはどのように考えておられましたか。

畑田:当時、早稲田大学におられた村井先生には、JSのPM制度に関して特にWBSをテーマに根掘り葉掘り聞いていただきました。そして、日本でほとんど見かけない本格的なPMの手法や、それに見合った組織をつくろうとしているJSを励ましていただいたのです。当時はどういった印象をお持ちでしたか。

村井:JSのWBSの秀逸なところは、仕事を分けるロジックが素晴らしいことです。当時の飯島さんからもお話を伺いました。モノはスペックとか性能で分けられますが、JSはプロセスの品質保証を管理、変更、予測できるシステムとした部分が素晴らしいと感じました。富樫さんが仰ったようにIDEF1Xでデータを分析していますから、モノと仕事を結び付けているデータの視点からすべてを洗い出してJSの仕事を再構成したところが、PUREないしWBSが現在でも使えている一番の要因ではないかと思います。
 押領司さんが創ったワークフローというのは、プロジェクトの実践経験を積み重ねてきた個人のノウハウを組織の標準的なビジネスプロセスとして定式化・共有したものです。一番の特徴は、 PMR と設計課長の管理権限を可能な限り区別したことだと思います。コミュニケーションする相手と情報処理の手順をビジュアル化したところも、ほかにはない画期的なシステムだったと思います。
 それでは、どれほどの効果があったかですが、実は、JSの企画総務部で2000 年と2002年の2回、 PM制度に関するアンケート調査が実施されました。調査結果を見ると、コスト・スケジュールの把握や協定金額の見積り精度が、非常に良くなったとの回答が38%から69%と30ポイント以上も評価をあげました。意思疎通の面でも、他部門との連携や支社間での情報伝達という評価が倍増していました。
 また業務効率の向上でも、意思決定や手続きの早さのほか、業務量の増減に関する好評価が36%から72%に上がりました。当時の要望としては、プロジェクトマネージャーの育成プログラムの検討が課題として挙げられていました。

金子:村井先生がJSのPMやWBSに関わるようになったきっかけはあるのですか。

村井:大学院に在学時の指導教授がエンジニアリング振興協会の役員をしており、日本でPMが出てくる兆候があるので調べてみては、と言われたことが始まりです。当時はほとんど国内事例がなく、いろいろ探して「季刊水すまし 10)」から手がかりを得ました。JSには12 回ほど、東京と大阪の両方の事務所に伺いました。
 飯島さんにも面会して、WBS のアーキテクチャーについて教えていただきました。

10)季刊「水すまし」では、1999(平成11)年夏号8(No.97)から3号にわたりプロジェクトマネジメント特集が組まれた。

金子:村井先生の論文は時系列がすごく丁寧に整理されていて、私が知らなかったこともあったので、非常に勉強になったと感謝しています。新しいことを始めようとすると、反対する方がいますが、反対意見は結構強めでしたか。

畑田:反対は結構ありました。しかし、頑張れと応援してくださった方もいらっしゃいました。東京大学の小澤先生が土木研究所に行かれていたとき、当時の建設省の工事事務所長の方々と会議でJSのPMについて説明する機会をいただきました。事務所長の多くはJS の取り組みに対して否定的だったのですが、小澤先生と指導されていた國島先生から「新しいことに取り組もうとしている人をなぜ理解し、手助けできないのか」と応援していただきました。
 徐々にそういったバックアップの声が理事長の耳に届いたり、国交省も「國島先生や小澤先生がおっしゃっているのだから」みたいなことがあって、外部の反対勢力は薄まっていったようです。あとは、押領司さんや森山さん、下村さんにどんどん仕事をしていただいたので軌道に乗りました。そういう黙々と作業をされている方の背中を見ると、周りの人たちも徐々に理解して頂いたのかと思います。

押領司:反対派について印象に残ることがあります。PM制度がスタートした後に、私が松井さんと同じ方向に住んでいて、たまたま夜、帰りが一緒になったときに帰り道で松井さんが、「今後、君はいろいろなポジションに座っていくとになると思うけれども、若い人からの提案に対しては決して反対してはならない。ちゃんと耳を傾けなさい」としみじみとおっしゃっていました。
 それはおそらく松井さんも情報システム室長として相当な反対を受けていたのではないかと感じました。私自身も、PMに関わった成功体験をバイアスにして、若い人の意見に反対することもあるのではないかと思われて、そういったアドバイスをいただいたのではないかと今感じています。

金子:次の話題に移りますが、PM業務おいて、コンサルとのコミュニケーションルールもつくりましたが、今回のコロナ禍のような状況では、そのルールも見直していく必要があると感じています。現在コンサルタントにいらっしゃる福迫さんと押領司さんはその点について何かご意見はありませんか。

福迫:最近はコミュニケーションが不足気味だと感じています。個人的には役割分担が薄れてきて「誰がやる」というのが「誰かがやるでしょう」となっている気がします。

金子:今その辺りをもう少し明確にしようとして、PMRとの意見交換で標準的なルールを決めないかと話しても、なかなか理解を得られない状況でした。

押領司:私がPMに携わっていたのは20年近く前になるので、当時と状況はだいぶ違っていますが、やはりJSそのものに人材が少なくなっているという状況があります。その中でやはり肌身に感じるのは、本来、JSがやるべき仕事をコンサル側にシフトしているというところがあります。契約上の甲乙の関係がある中で、プロジェクトのパートナーとしていかに意思疎通、円滑な運営をやっていくかというのがコミュニケーションルー ルだと思いますので、そういう観点で現状を踏まえた見直しをぜひお願いしたいと思います。

金子:コロナの関係で対面がなかなかできなくなっているので、少し時間はかかるかもしれませんが、Web上でできることを仕掛けなければならないと思っています。

飯島:私が日揮に入社したころは、ちょうど日揮もWBSの標準化が終わったところで、その適用を始めました。電子メールやWEB会議などの無い時代に、テレックスのような電信手段だけで遠い地球の裏側の建設現場と、複雑なエンジニアリングの内容を伝え合うために、WBS手法による作業の標準化は不可欠でした。
 仕事を細かく標準化し、作業間のコミュニケーションルールを決めておくことはプロジェクト管理でいうスコープ管理になります。仕事を切り分けることで、切れ目なくプロジェクトを進めることができるようになります。

畑田:実はコミュニケーションルールをつくるときに、飯島さんがおっしゃった標準化が一つの思想としてありました。JSの仕事と外注の仕事がはっきりと識別できないと、「どちらがやるの?」という話から入ってしまいます。特に設計においては、コンサルタント側もプロですので、品質保証は期待できますし、途中途中で管理をするというしくみも当然必要ですが、分担の確認や途中の過度な干渉はお互いの生産性を低下させるという懸念もありました。最終的には、図面や計算書などは、お金を出して買うという仕組み、つまり、欧米で言う調達のような仕事の仕方や関係に変えていきたいというのがコンセプトになっていました。
 日本国内ではこれが意外に理解されませんでした。スマートに仕事をするためには、役割や関係がきちっと理解されている必要があります。シンプルな分担やルールを守るという信頼関係をつくった上で本当のコミュニケーションを図りたいと思います。

準備段階での重圧を乗り越えて

金子:次はPM 制度の導入準備についてですが、先ほど押領司さんが話されたワークフローは業務概念、年間スケジュールが簡単に理解できて非常にいいと思っているのですが、どのようなところから発想してきたのでしょうか。

押領司:もともとJS にはワークフローという文化があったのではないかと感じています。設計書作成の手引きや設計書の流れといったものを部署と時系列で表現したものがありましたが、ルールがない形で作成されたものもありました。ワークフローのフォーマットを定めて、ドキュメントも定義し、イベントごとのマークの定義も行い、ワークフローをつくりあげていきました。そういう面では、元々の文化がPMとしてしっかりと形づくられてきたのではないかと思います。

金子:先ほど村井先生もワークフローの話をされましたが、何か補足はございますか。

村井:先ほど申し上げたとおり、PMRと設計課長の管理権限をキチンと分けたこと、コミュニーケションの相手と情報処理の手順をビジュアル化したことにより、20年経っても使用に耐えるしっかりしたツールとしてJSの財産になっている、と思います。

森山:PM導入のメリットの一つはワークフローができたことですが、押領司さんのお話のように、ワークフローで上申の仕方や決裁の取り方だとか、部分、部分ではあったものの、今回 PM制に伴い作成されたフロントエンドや納品後のアフターケアといったところまで、すべての業務をひと通りワークフローで網羅して、それがWeb上で閲覧できるというのは、JSのように人が入れ替わることの多い組織にとって非常に大きかったと思います。
 それと、もう一つのPM導入のメリットは、 PUREのシステムの中に予算だけではなくて協定とか契約の情報とか、実際に協定を管理する課の承認とか契約課の承認がなされたデータが保存されるようになったのは、異動して担当が変わったときに非常に安心感があり、PMRをする上で大きなことだったと思います。

金子:下村さんは出向で来られた時に、市とJSで当然仕事に違いがあると思いますが、戸惑などはありましたか。

下村:私は堺市でJS の窓口担当をしていたので、コミュニケーションについてはあまり戸惑うことはなかったのですが、機械職で予算管理の経験はなかったので、来てすぐにPMR で予算管理からすべてのことを行うということに戸惑いを感じました。
 先ほどのワークフローの話に戻りますが、JSのつくる棒グラフの上に、自分で大まかに中期とか長期のビジョンを入れた表をつくって、それにワークフローを貼り付けて、PURE から出る棒グラフを貼り付けて、この時期に誰が何をする、という情報を自分なりに入れ込んでいきました。そこに今度は自治体の担当者からの情報(議会等の案件)を入れるとか、補助金の申請の情報も追加し、自分のプロジェクトのメンバーに配って進めていました。

金子:実は今のPMRは改築更新業務が主体のため、新設プロジェクトのスケジュールを作成するのが得意ではないようです。下村さんはどのようにして全体像をイメージ化されましたか。

下村:堺市では、機械職であっても土木・建築・機械・電気、全部を見ておりました。当時はまだ維持管理の時代よりはちょっと前の建設の段階でしたから、JS に来てからも処理場をたくさん建設しましたが、計画、基本構想、基本設計、地元への説明、議会対応といったような一連の流れがあって、それを全てわかっていると長期の棒グラフが書けるのです。それは下水道協会出版の「下水道施設計画・設計指針と解説」を見たりして、処理場を1度つくると、その流れが分かってきますし、それは別にODであろうと標準法であろうと、期間の長い短いはありますが、同じことをするだけなので、長期のビジョン作成も可能かなと思います。

金子:今の改築更新だと、確かストックマネジメント制度に申請した範囲のものしかできないという概念があるので、どうしても枠にはめられた中で動かなければならず、全体像がつかみにくいということもあるのかもしれません。

下村:一つのユニットにとっては、改築更新であっても、撤去という項目がないだけで新設と変わりありません。そのパターンだけを見ておいて、ストマネでどの程度の補助でどのような工事をするかといった情報をつかんでおかないと、次のステップに上がれないので、そこは細かく見ていたと記憶しています。
 そうすることで、次の中期・長期ビジョンや営業戦略を立てることができるので、やはり中期・長期というビジョンをつくり、10年経つと改築更新に何億円かかるといった情報を自治体にPRして、その時のPMRにその仕事を任せたら、他の営業にも行けると思います。

福迫:今のPM制度のPMRの役割は、実施設計からスタートしている傾向が非常に強くなっているように感じます。計画からPMとして捉えていかないと、今の長期ビジョンのスケジュール等の把握がしにくく、引継ぎが上手くできていないのが、実態ではないかと思います。
 プロジェクトは本来、設計からではないという認識をもっと強めていかなくてはいけないですね。基本は構想計画から入っていくのがPMなんだという捉え方に変えると、解決していくのではないかと思いますが。

金子:PMRは公共団体窓口のため、設計、現場から頼られるわけですが、全てをこなせるわけではないので、誰が何をやるかを理解して、PMが専念する業務を明確化することが必要ですね。

導入時に現場で何が起きたか

金子:PMの創成期のお話をお伺いしたいと思います。10月からPM制度がスタートしましたが、現場では混乱はあったのでしょうか。

押領司:私は東京支社で10月からPMRを担当しており、ほかの方は次の4月からでしたので、導入初期の10月の混乱期は私しか経験していないかと思います。非常に大変な時期でした。まず、10月に業務の引継ぎがあり、PUREにはデータがまだ入っていなかったので、今までのデータをすべてPURE に打ち込む作業が必要でした。それでもただ棒グラフを丸めた数字ではなく、最終の施行計画に基づいて正確な金額を入れていく必要がありました。1人10数カ所を抱えながら、入れ方を間違うとワークパッケージからもう1回戻ってやり直すなど、煩雑な作業が続き、毎日深夜になるまでデータを入力していました。
 それから本要望対応。それが終わったら、12月の予算からスタートする次年度の基本協定を締結するための対応が続きます。最初の半年間は悪夢のような時期でした。今皆さんからPUREが良いとお聞きしましたが、そういった苦労を乗り越えて、より良いものになったと、非常に感慨深いものがあります。

金子:今までだと予算の締めは工事課に資料を渡せばチェックしてくれていましたが、PUREの1年目は、両方をやられていたんですね。

押領司:そうですね。PMRもやっていました。私自身も最終の契約情報とアウトプットの施行計画を担当し、それが1円でも違うと大変なことになりますので、3回ぐらいチェックしないと安心できませんでした。そこはおそらく当時の工事課もPM室に任せていたのではないかと思います。

金子:それまでは4課でやっていた成果品の管理が全部PMに集中するというかたちになりましたが、混乱はなかったのですか。

押領司:私はPMRという立場で実設計のチームにどちらかというとリーダー的に関与していたので、ある程度メンバーの方と仕分けしながらやっていました。ただPMRだからお前がやれという感じは全くなくて、チームとして対応できていた雰囲気がありましたので、大きな混乱はなかったと記憶しています。

金子:皆さんがPMRになられて他団体を回る際に、PMのやり方について何か言われることはありましたか。

福迫:PMRになってPMをまず熱っぽく説明しました。これでJSは変わっていくのですとPRしていました。そこで「じゃあ見てみようか」と言われたので、「いや、来年からです」と答えると、「アクションが遅いところは変わらないね」と言われました。そこで「PMで役割分担をして早くなる。即回答・即提案ができるようになる」と説明して、2年目から発破をかけました。

富樫:私も実は1999(平成11)年度末までシステムの仕事をしていて、2000(平成12)年4月からPM室にいましたが、PMを導入した責任を感じていて、最初に大阪支社に行ったときには結構プレッシャーを感じていました。ただ当時のPM室は結構うまくいっていました。そんなに残業をしているわけでもなく、和気あいあいとやっていた雰囲気がありましたね。

下村:団体の担当者に土木の人がやっていた窓口が変わると伝えると、「何が変わるの」と聞いてきましたが、私は「何も変わりません。窓口が私になるだけです」と言い、あとは通り一遍のPM制度の話をしていました。大阪支社は7割が出向の元土木で、新米は私とプロパーの方ぐらいでした。

富樫:そうですね。大阪支社は専門設計課の人も、 PMRが若くてもベテランでも結構立ててくれていました。

福迫:私は10月から、PM制の開始により具体的な部署間調整を行う必要がまだあることから、技術指導課でPM制度の浸透のため各課の課内会議に入り毎週説明していました。当時、専門設計課はかなりの抵抗感がありましたが、毎週行く中で、しだいにやってみるかという雰囲気になっていったのを覚えています。
大阪支社では、スタート時の準備で次長、課長をまとめて調整会議をやっていました。そこで技術指導課としてPM制度を説明していく中で「それならあなたが、PMをやってみろよ」と言われたのが記憶に残っています。その半年後にはPMを実践でき、その時は自信が湧いていたのを覚えています。西日本設計センターは、最初は反対だったけれども、やると決まったらやるという風潮があったように感じています。

森山:私はPM制度が始まった半年後の2000(平成12)年4月から東京に赴任しました。赴任した年に感じたのは、設計担当者も半年で人が代わっている部署があって、引き継ぎはPMに聞いてくださいと引継書に書いてあることもあり、PM頼みのウエイトを大きく感じ、半年間で混乱があったのだと感じました。何年か経つ間にEMRとの役割分担というか、EMとPMの業務の分界点が段々と整理されていって落ち着いてきたというのが最初の何年間かの印象です。

金子:私も森山さんと一緒にPM 室に行ったんですが、担当団体が変わるたびに毎年4月に勉強して覚えて、団体に挨拶に行ってという同じことの繰り返しをしなくてはならないのが大変でした。1年かけて仕込んだ資料が全く使えないわけです。会計検査などの時期は、PMR一人で委託団体に出張していました。

飯島:私が尊敬するプロジェクトマネージャーは「複雑で巨大な建設プロジェクトの遂行シナリオを頭の中でリアルに組み立てることが重要だ」と語っていました。そのために、プロジェクトチームの専門家に様々な代替案を検討させる。それが最近よく言われるフロントローディングという考え方になるのですが、今、JSが立ち向かっている再構築や維持管理の仕事は様々なリスクがあると思いますので、こうした方法がものすごく大事になると思います。

金子:押領司さんは実際にPMをやられて、様々なものの標準化をされてきたと思いますが、成果や感想を伺ってもよろしいでしょうか。

押領司:ワークフローとかドキュメントを全部整理しましたが、PMの時はこれに則って仕事をしてくださいとは言いませんでした。それは一挙手一投足のすべてをワークフローに則って動かすのではなく、本質を見据えて仕事をしてほしいと思っていたからです。しかし、東日本設計センターも、厳格な方、委託団体にうまく取り入る方、委託団体の立場でしっかり相手に物を言う方など、三者三様のPMR がいました。そのため、こちらが準備したものを実践の時に厳格に使おうというイメージはなかったと記憶しています。

温故知新が今後の展開へのカギ

金子:最後に、若手のPMRや今後のPM制度の改革に対する期待を皆様から一言ずついただきたいと思います。

村井:経営学では、プロジェクトは戦略経営の実行単位です。PMは、そのための実践ツールだと考えられています。ですから、地方自治体からの要望や需要にあわせて戦略を変えていかなくてはならないと感じています。PMの導入時は市場の成長期でした。実際に事業費も300%ぐらい伸びていた時期でしたから、PMで業務を行うことによってポジショニング戦略に成功したのだと思います。
 現在は、市場も成熟期を経て衰退期にあると察します。この時期は、次の導入期に移る準備段階の戦略が求められるので、ラーニングすなわち学習戦略が非常に重要になってきます。学習戦略をわかりやすく言うと温故知新でしょうか。JSのOBによるPMRの育成をはじめ、地方自治体へのサポートとして、ファイナンスの代行業務やセンサーを用いた省力化・無人化へのという技術が出てくる移行期になっていると感じます。PMRの方には、ぜひ「JS を良くしていこう、自治体に対して、こういう提案をしたい」といった自治体目線で仕事を進める真摯さと、新しい技術や市場を開拓していこう、という熱意や理想をもって学んでいって欲しいと望みます。

飯島:今、村井先生がおっしゃられたように、今まさにJSは変わり目に来ているのだと思います。富樫さんや畑田さんがマトリックスでプロジェクト体制をつくられたのですが、今大事になっているのは、マトリックス組織を長期的なアセット計画の策定に適用させることだと思います。
 ダウンサイジングを始めると、様々なコンフリクトも起きますし、既存の設備があるので、そこに手を入れるというのは、リスクもあります。やはり専門家の力を結集していかないと仕事をこなしていけないのではないか。ですから、PMを中心にして技術者などの力を使って全体が良くなる計画をつくって、それがうまく執行されていくという流れができるといいのかなと思います。今は下流よりもより上流へが重要になっていると思います。

福迫:やはりOBも活用していただきたいですね。「JS愛」がある限りやっていきたいと思いますので、実現できるようにお願いしたいと思います。

森山:私たちがPM を始めたときは、予算も多く、人も多かったのですが、業務にもかなり忙殺されていました。今は世の中も変わってきているので、根本的にもう一度仕事の仕方を変えることが必要でしょう。PMの向き不向きを見極めて、人を育てていくことが大切です。

押領司:JSにとってPMというのはもう無くてはならない業務のやり方だと思います。ただ、今は仕事自体が大きく変化しています。従来の我々がやっていた新設・増設、単純プロジェクトに対しても、ストマネ計画上の改築更新、それと官民連携(PPP/PFI)といった業務にも対応していく必要があります。特に官民連携におけるマネジメントは、これまでと違ったマネジメントが求められると思いますので、その体制に応じた、PMのあり方をしっかり検討して再整備していただければと思います。

富樫:若いPMRにはプロジェクトがうまくいったときの快感というのを味わってほしいと思っています。自分が描いた筋書き通りにこの1年間がうまく進んだとか、そういう経験を積めば、またどんどんやる気が起きてくると思いますし、我々管理職もそれができるように協力していかないといけないと思っています。

畑田:プロジェクトという括りがあって、ゴールまでたどり着かなくてはいけないという仕事は、今後も無くなることはありません。プロジェクトを複数まとめてということもありますし、長期的な戦略を前提にしながら構成するプロジェクトをやっていかなくてならないケースもありますが、そこには責任者としてのPMRを位置付けなくてはいけません。それからPPP/PFIやコンセッションのようなシチュエーションになったとしても、頼まれたのなら、やはりやることは同じです。ゴールを考えてスコープを切り出して、皆さんのやる気を引き出しながらプロジェクトを運営していくこと。この感覚を大切にしていただいて、これからの新しい仕事に挑戦してもらいたいと思います。そして、若い人たちが目指す組織づくりを今度は我々OBがサポートしていきたいと思っています。

金子:PMも大きくかたちを変えていく時期ですし、JSの核となっていく30代、40代の方々には、プロジェクトを仕切っていく中で、その魅力に気づいていただき、新たなPM制度の道筋を見つけていただきたいと思います。本日は貴重なお話をいただき、本当にありがとうございました。

資料】JSに導入されたプロジェクトマネジメント(PM)制度について
○ PM とは、期間、予算、品質などについて一定の制約のもとで委託された施設を目標通り完成させるために、投入される人や時間、情報などの資源を体系化、組織化するとともに、実施の調整を行うプロジェクトの運営方式である。
○ JS では、その有効性と発展性に着目し、1998(平成10)年にPMへの転換を決定し、他に先駆けて、受託業務の主要部分を占める実施設計及び建設部門に導入を図ることとなり、1999(平成 11)年10月には、導入に合わせ実施体制を変更し、プロジェクトの運営全般の計画策定や計画に基づく運営の責任者であるプロジェクトマネージャー(PMR)と専門技術者によるプロジェクトチーム編成により、施設の引き渡しまで一貫して業務を遂行することとなった。
○ 導入当時の季刊「水すまし」では、3号に渡って特集が組まれており(※脚注10)、その解説を紐解くと、PM導入の特徴や意義について次のような説明がなされている。
・PMは、当時米国において科学的手法として体系化され実学として発展してきた手法の一つで、品質管理、コスト管理、工程管理等の情報技術を駆使して徹底していく方法である。
・PM導入の基本的な考え方とは、これまでの「暗示的で個人のノウハウ」を「明示的で全体のノウハウ」に転換するものであり、「ベストプラクティス」(最もよりやり方に合わせること)の考え方を取り入れることにあって、WBSや仕事の手順を標準化した各要領書は、それを実現するためのツールである。
・PMはプロジェクトを成功に導くことが目的であり、成功させることは社会的満足度や顧客満足度の向上を達成することであって、この結果としてJSの永続的発展、職員満足度の向上が図られる。

< PM導入に至る経緯>
○ PM 制度に向けた検討
・1996(平成8)年1月 情報システム推進室の設置(日本下水道事業団業務運営長期計画における業務再構築を担当)
・1996年7月 JS再構築基本構想の策定(※脚注3)。推進室における業務分析及びあるべき姿の検討成果をもとに策定。併せてJS再構築推進本部・分科会が発足(12月にアクションプログラムを策定)。
・その後、構想を基に、JS内の情報システムの整備が進められるとともにライフサイクル・サポート構想がまとめられ、これらの検討の成果としてPM制が導入されることとなる。
○ PM 制度の導入準備
・1998(平成10)年4月 「プロジェクトマネジメントの強化」の具体的な施策方針として役員会でPMへの転換が決定。情報システム推進室を事務局とするPM転換推進チーム、PMアドバイザーチームが設置された。
・この導入準備時の成果の一つが「ワークフロー」であり、建設プロジェクト運営要領による規定化の基礎資料、各部署への導入説明資料、導入後の手引きとして活用された。さらに、導入準備作業と並行して、PM方式による業務運営の支援ツールとして「PURE」が開発された(囲み記事「PURE シ ステムとは」参照)。
○ PM 制度の導入
・ 1999(平成 11)年10月 両支社設計部門にPM制を導入と実施体制の変更。支社の設計実施部門を、 PM室、土木、建築、機械、電気の各設計課に再編成。PM 室のPMR は、地方公共団体の窓口業務をはじめ、プロジェクトの企画、遂行、管理の責任者として各課を横断してプロジェクトを運営。専門技術は、各設計課長の下で技術特性・難易度に応じて選ばれた設計者が業務担当。
※ 導入前は、東京・大阪両支社の設計課が中心となり、土木、建築、機械、電気の技術者を配置し、各課が一連の業務を担当する地域担当課制(委託団体の窓口の一本化、県ごとの設計の考え方、積算方法等の整合性を図る目的で1984(昭和 59)年に導入)を取っていたが、設計の標準化が進み、積算基準や単価の取り扱いが統一化され、情報技術によるコミュニケーションも可能な状況となり、「プロジェクトの企画運営管理の責任者が明確に位置付けられていない」、「新たな知識、高度な技術を理解する、専門分野に精通した専門家が育ちにくい」、「個々のPJの特性・難易度に応じた適材適所の自由度が少ない」、「地域担当課の課長にPJ運営及び専門技術の双方の判断が集中し、全てを担うのが困難」といった課題がクローズアップされた。

(参照文献)日本下水道事業団 30年のあゆみ、季刊水すましNo.97