地方共同法人 日本下水道事業団

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50周年記念行事等準備室通信 第10号

これまでを振り返って

経営企画部会計課大沼幸喜

50周年記念行事等準備室通信第8号(2019.6)では、平成元年度に採用されたプロパー職員の特集でしたが、私はその前年、昭和63年度採用、そう昭和最後の入社組(JS16期生)で今年32年目を迎えました。入社当時指導していただいた先輩諸氏の多くはすでにJSを退職されており、月日の経つのは早く、あっ!という間に令和の時代に突入したという感じです。これまで多くの方が執筆されてきましたが、自分のこれまでの歩みを振り返るいい機会をいただいたと考え、記憶を呼び起こしていければと思います。

《昭和63年》東京支社工事課(虎ノ門)
事務職の同期二人(すでに退職してしまいましたが)が、本社の厚生課、資金課に配属となる中、技術職が多数を占める課で数少ない事務職の一人として工事関係書類や請求書のチェックに格闘。

《平成3年1月》東京支社総務課、会計課
設計等に係る委託契約事務を中心に担当。私事では4月に結婚。

《平成6年》(財)下水道業務管理センター(現(財)下水道事業支援センター)出向(赤坂
当時、JSを退職されたOBの方が主体の組織(技術職の方はこの数年前から現役出向されていましたが)へ事務職初の現役出向に一抹の不安を覚えたことを思い出します(2年と期間は言われていましたが本当にJSに戻れるのだろうか?など)。業務は、経理がメインでJSとは異なる公益目的事業会計と収益事業等会計に区分経理し、仕事上の疑問点については顧問税理士に相談しながら進めていき、税務対策といった視点での経理処理については貴重な経験をさせていただきました。

《平成8年》福島工事事務所
初めての地方転勤。郡山はそれほど雪が降らないと聞いていたものの引っ越し当日、結構雪が降っており、あ~東北に来たんだなあと実感。事務職でも勤務中は上下作業服、職場まで歩いて5分の職住接近と東京とは異なりかなり恵まれた通勤環境で現場に出ることも多く、福島県がいかに広いかを実感した2年間でもありました。当時、浜通りの富岡に出張所(常勤者3名)があっため月に2回は行っておりました。H23.3.11の東日本大震災で患者置き去り等の混乱があった双葉病院は、出張所職員の健康診断受診病院として何度か事務手続きに訪れた場所でもあります。平成29年4月になってやっと富岡町北東部の帰還困難区域(町面積の15%を占める)を除く避難解除と全面的な避難解除にはまだまだ長い期間を要していますが、今年の4月には、住民たちが町の用意した送迎バスで、帰還困難区域内の桜並木(名所として知られる同町夜の森地区の桜並木←夜桜を含め本当に綺麗でした。)を訪れ、車窓越しに春の訪れを感じたそうです。全長2.5キロの大半はまだ帰還困難区域内にあり、早く住民が安心して花見を楽しめるよう町の復興を願うばかりです。

《平成10年》技術開発研修本部管理課
職場が戸田市にあるため宿舎も市内の近くに借り上げましたが、JS保有宿舎が急遽空いたからとわずか4カ月で埼玉県三郷市へ転居。慌ただしかったなあ~。仕事は、経理を担当しながら研修の開講日や修了日の司会、研修生の生活サポート等と雑多で幅広い業務を楽しみながら経験させていただきました。

《平成11年10月》経理部経理課
エース事業の予算を担当。大蔵省主計局、理財局との対応がメインとなり、残業が増え仕事も深夜に及ぶことが多くなりました。当時、JSのエース事業は、財政投融資資金を借り入れて施設建設を行っていたため、毎月、理財局へ資金収支報告(月にいくら料金収入があって支出したのかなどを詳細に説明)や予算の時期になると深夜2時に大蔵省から電話で呼び出されることも珍しくなく本当に忙しい時期でした。そんな中、課長を始め関係課員の方々と深夜3時から赤坂の夜の街へ繰り出したことなどが思い出されます。

《平成14年》大阪支社総務課、近畿・中国総合事務所お客様サービス課
初の関西圏勤務。東京生まれ、東京育ちの自分に関西弁の嵐に耐えられるか不安を感じながらの赴任でした(家族も同様)。でもその心配は杞憂に終わり、出向の方を含め気の合う方も多く、安い店を探し(当時は今と違って紙のクーポンを切って使用)、毎日飲み歩くようになったのもこの頃です。業務はというと総務系で支社長の式典あいさつ文を書いたり、各種会議の開催をしたりと多岐に渡っていましたが、当時、支社内の非常勤事務員さんの採用を担当していたことから面接した人数は延べ100名を超えていたと思います。そんな中でのプチ自慢としては、面接で採用された方とJS職員が結婚するなどカップルが成立し少しは役に立てかなあと思っております。ねぇSさん(笑)。

《平成17年7月》経営企画部経理資金課、会計課
決算を担当。会計検査院への証拠書提出、東京国税局への消費税調査対応(約6カ月)、財務諸表の作成、税務申告等と簿記のおさらいをしながら日々格闘する中、当時の上司から示された民間同様の決算重視方針(日々是決算)に対し認可予算制度との間で苦慮したことを思い出します。

《平成21年》四国総合事務所お客様サービス課
単身赴任となり生まれて初めての一人暮らし。当時、独身者も多かったことから終電を気にしない飲み会(繁華街から家まで歩いて帰れます)、週末は料理の得意な方の手料理をいただき(もちろん男性です(笑))、讃岐うどんの食べ歩き、阿波踊り・よさこい祭り等、単身生活を謳歌させていただきました。お付き合いいただいた方、ありがとうございました。もちろんCS課の業務も頑張りましたことは申し添えさせていただきます!

《平成23年》経営企画部法務・コンプライアンス課
新設された課として課長含め3人の少人数で訴訟対応、内部規程の審査、受託試験研究の協定締結、工事・設計の契約制度を担当し、特にコンプライアンスに関してはこれまでJSに知見がないため外部の研修を受講し関連図書から知識を習得することでコンプライアンス基本方針の策定等へつなげることが出来ました。

《平成25年》関東・北陸総合事務所お客様サービス課
三度目のお客様サービス課勤務となりましたが、これまでと違い8名の方々が各々業務を担当されているため、私の業務としては渉外対応、資料の取りまとめ、各種会議資料の作成が中心となりました。埼玉事務所の開設では、タイトなスケジュールの中、課員の協力のお陰で無事間に合わせることが出来ました。関東・北陸総合事務所は、管内に9事務所、1分室を抱え業務量が多く課員の方々にはご負担をかけることも多かったのですが、何とか無事に乗り切れたのもひとえに課員の皆様のお陰とこの場を借りて感謝申し上げたいと思います。

《平成30年》経営企画部調査役(出納)
わずか3カ月で異動となりましたが、出納全般、資金運用、特定下水道工事の補助金事務、資金借入を担当し、受注者への支払早期化を図るため委託団体からの資金受け入れをいかに早めるか団体へヒアリングにも行かせていただきました。

《平成30年7月》経営企画部会計課
会計課17名のうち8名が女性と華やかな職場でもあります。会計課所掌事務のうち執行管理、出納、契約はそれぞれの担当調査役が所管され、私は予算、決算、財産管理、旅費といった業務を担当させていただいております。平成30年度決算については、担当の方々のゴールデンウィーク返上で頑張っていただいたお陰で、財務諸表等を国土交通大臣に提出することが出来ました。また、平成30年11月には、30年の永年勤続表彰を頂戴させていただきました。

以上長々とこれまでのJS生活を振り返ってみましたが、つくづく色々な方に支えられて乗り切ることが出来たのだなあと感謝の気持ちで一杯です。残りのJS生活、今までの経験を活かし少しでも貢献出来たらと思いますので、これからもよろしくお願いいたします。

日本下水道事業団50周年に寄せて&現在の担当都市を歩いて

東日本設計センター計画支援課本島望

来たる2022年(令和4年)は、日本下水道事業団がその前身である下水道事業センターとして発足した1972年(昭和47年)から50年とのことで、大きな区切りの年となります。また、下水道事業センターが日本下水道事業団となったのは1975年(昭和50年)8月とのことで、これは私が産まれる直前であり、感慨深いものがあります。
今でこそ当たり前の水洗トイレですが、思い返してみれば、通っていた市立の保育園や実家近くの国鉄駅の男子小用トイレは仕切りもなく、コンクリートに直接尿を当てるタイプで、夏ともなると虫が沸いてコンクリートをはいつくばっており、何ともおぞましい空間でした。小学生になっても通学路の脇の側溝には生活排水がそのまま流され、市内の川はドブ臭く、子供ながらに汚いな、近寄りたくないなと思ったものです。それが、中学生になった頃からか、どこのトイレも水洗化され、側溝には雨の日以外は水も流れず、市内を流れる川にも小魚が泳ぐようになりました。今思えば、これが下水道の普及というものであり、下水道事業の成果そのものなのだと感じます。
私が日本下水道事業団に出向者として勤務していたのは、社会人4年目の2003年(平成15年)4月から2005年(平成17年)3月であり、ちょうど事業団が地方共同法人に移行する時期でした。その後ご縁があり、2017年(平成29年)より再び事業団で働かせていただいております。現在の計画支援課では直接団体の担当者とやり取りすることが多く、時に下水道の専門用語が出てくるとたじろいでしまい、事業団の職員として下水道の知識がまだまだ不足していると感じる日々です。
担当している団体に出張で出向くことも多く、出張がてらポジティブ・オフを取得して街を歩いたり、その街ならではの雰囲気を感じ取ったりと、業務も含めて地域と関わることの醍醐味を感じているところです。今回、このような場をいただきましたので、担当している団体のうち3都市について、仕事以外の所感とおすすめスポット&食事処を紹介させていただきます。

■群馬県館林市
担当するまでは市内を横断する国道354号線を走り抜けたことがある程度で、国道沿いの店に昼食で立ち寄ったことがある程度でした。しかし、街を歩くと実に個性的で歴史ある街。東武鉄道の館林駅に降り立つと、駅西口には日清製粉の工場とミュージアム、正田醤油の本社と記念館があり、両社の創業地である企業城下町であることを感じさせます。市役所はそれとは反対側の駅東口から徒歩20分ほどの場所にあり、小麦粉と醤油の街だけあって道すがらにもうどん屋が多いのですが、実はフレンチや寿司の名店もあります。おすすめは、入口に堂々と「食べログ掲載お断りの店」と書いてあったフレンチのお店。女性ばかりの店に男一人で入るのには勇気が要りますが、なかなかの美味です。

■福島県白河市
以前、福島の友人と会津観光をしたあと、新白河駅まで送ってくれたことがありました。その時、会津と白河ってこんなに近かったっけ?と思った記憶があります。それもそのはず、2008年(平成20年)に会津地方へ抜ける甲子道路が開通し、白河市は大内宿や湯野上温泉などへの観光拠点として重要度が増しています。昨春に東日本大震災から修復完了宣言をしたばかりの白河城の城下町で、白河市立図書館『りぶらん』や白河文化交流館『コミネス』など文化施設が充実しています。名物はもちろん白河ラーメンで、ラーメン屋の数は100軒を超えるらしいのですが、穴場としておすすめするのが市役所本庁近くのうどん屋さん。染め抜かれたのれん、木枠の引き戸、つや光りした長机。おばあちゃんが一人で切り盛りしていて、メニューは「かけうどん」1種類のみ!令和の時代までこの店が残っていたことが奇跡のように感じます。

■新潟県村上市
村上市と言っても、前職で青森や福井に頻繁に通っていたころ使っていた両県を結ぶ寝台特急『日本海』で真夜中に駆け抜ける街、という認識くらいで降りたことはありませんでした。現在、村上市はキャッチコピーである『鮭・酒・人情(さけ・さけ・なさけ)』にあるとおり、塩引鮭と地酒でPRしています。風情ある市中心部の町屋、鮭専門の博物館『イヨボヤ会館』(イヨボヤは村上地方の方言で鮭の意味)や日本海沿いの名勝である笹川流れなど、景勝地も多い街です。秋になれば『はらこ丼フェスティバル』と銘打って市内の飲食店でいくら丼が提供されるほか、岩船港近くの寿司を出さないラーメン専門店の寿司屋?!や村上牛もおいしいです(村上牛を食べたのは「村上・牛ぎゅっとバーガー」としてだけですが...)。また、個人的趣味の世界ですが今年3月のダイヤ改正で消えてしまうキハ40系や新登場したリゾート列車「海里」で羽越線から眺める夕陽が素晴らしかったです。

東海道五十三次を歩いています

JSOB(昭和48年入社)飯野和男

JSは2年後に創立50周年を迎えるとのことですが、私は一足先に昨年生誕70周年を迎えました。65歳でリタイヤ後は、趣味やボランティアを通じ地域社会とのつながりを重点にした活動をしていますが、古希を迎えた昨年、何か記念になることを残したいと考え、東海道を歩くことを思いついた次第です。

東海道とは言うまでもなく、江戸時代に徳川幕府がその基盤を確保するために整えた五街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)の一つです。江戸「日本橋」をスタートして、京都「三条大橋」まで490Km程の道のりで、のちに大阪「高麗橋」まで4宿を設け57宿としましたが、今回は一般的な53次を目標としました。

第1日目。日本橋からスタートです。
日本橋には、「日本国道路元標」のプレートが埋め込まれています。また「日本橋」の文字は、15代将軍徳川慶喜が記したものだそうです。
銀座を過ぎ新橋まで来ると、1872年に開業した日本最初の鉄道ターミナル「旧新橋停車場」の駅舎とプラットホームを再現した記念館があり、当時が偲ばれます。
JR田町駅の近くに、「西郷隆盛・勝海舟会見の地」碑があります。江戸城総攻撃の前日に江戸城明け渡し、そして15代将軍慶喜の処遇について話し合いが行われ、江戸無血開城となったという記念碑です。
(実はその5日前に慶喜の側近であった幕臣・山岡鉄舟が府中宿(静岡市)で西郷隆盛と会談し、この合意内容を事前にまとめるという重要な役割を果たしたことはあまり知られていません。
鉄舟は府中宿に赴く途中、官軍に追われますが、夜中に逃げ込んだ旅籠「望嶽亭藤屋」にかくまってもらい、その主人の協力を得て漁師の姿に変装し、海路江尻宿(静岡市清水区)を経由して無事府中宿まで行くことが出来ました。鉄舟は駿府城近くの旅籠で西郷隆盛と江戸城総攻撃中止と慶喜の処遇についてぎりぎりの話し合いを行い、西郷・勝の会談に繋げることができたということです。

この話は、私がのちに由比ゆ い宿の先薩埵さつた峠とうげの麓にある「藤屋」を訪れた際、現在もその貴重な建物と資料を管理されている23代目のご主人から直接聞いた話で、この時にあの有名な清水の次郎長親分の支援もあったことを聞き、歴史の面白さに驚くばかりでした。「藤屋」には、変装のために鉄舟が残していった当時のピストルも公開されています。また、後日府中宿を訪れた際、駿府城跡近くの街角に、「西郷・山岡会見の碑」もありました。)

(西郷・勝会見の碑)
(西郷・山岡会見の碑府中宿)

赤穂義士が眠る高輪の泉岳寺にお参りし、その後少し行くと品川宿に入りますが、ここからはしばらく旧街道を歩きます。街道沿いにはいくつかの古刹があり、砲台跡が残っています。ここで遅い昼食で入ったお蕎麦屋さんにご当地ビールがあり飲んでみました。日本で最初のビールということで、その名も「品川縣麦酒」と言います。「品川縣」?そんな名前の県があったの?
調べてみるとありました。今の東京都の品川・目黒・世田谷・練馬などの9区、多摩東部・南部、神奈川県・埼玉県の一部が「品川縣」として明治2年に設置され、明治4年には東京府に編入されたとあります。品川には、当時、土佐藩山内家の下屋敷があり、そこで日本初のビールが作られていたことがあり、現在、街おこしのひとつとして地元の人たちが復刻して販売しているということです。

(品川縣麦酒)

昼食後、川崎宿を目指しましたが、日も暮れ始め、手前の京浜蒲田駅までとしました。この日歩いた距離は15Km程度でしたが、スタートの日でもあり、無理はやめました。昔の人は1日10里(約40Km)を歩いたと言われ、参勤交代も江戸・京都間を15日前後で歩き、かの有名な弥次さん喜多さんも「東海道中膝栗毛」の中で伊勢神宮まで12日で歩いています。道路事情や履物を考えると驚きです。

2日目は京浜蒲田駅からスタート。これ以降、小田原宿までは日帰りの繰り返し、小田原から箱根を越え沼津宿までは1泊2日、沼津から先は拠点を決めて2泊3日を基本に歩を進め、2019年12月現在、三河の池ち鯉り鮒ゆう(知立)宿を過ぎ、40番目の宿場となる尾張の鳴海宿に向かっているところです。
東海道を歩いていると、お城や古い町並みだけでなく、一里塚や松並木・杉並木などが残っており、往時の雰囲気を味わうことが出来ます。また東海道にまつわる歴史にふれたり、その土地の美味しいものに巡り合うことが出来るなど、新鮮で楽しいことがいっぱいです。加えて足腰の鍛錬、頭の体操にもなり、リタイヤが近い方にはお勧めします。

(掛川城掛川宿)
(丸子宿とろろ汁で有名)
(松並木御油宿→赤坂宿)

それからこれは下水道のメルマガですので、道中で見かけたマンホール蓋をご紹介します。

横浜市(戸塚宿飛脚)
静岡市(江尻宿ちびまるこちゃん)

最後に、話は全く変わりますが、竹内まりあの「人生の扉」という曲に次のようなくだりがあります。

「・・・・・
満開の桜や色づく山の紅葉をこの先いったい何度見ることになるだろう
ひとつひとつ人生の扉を開けては感じるその重さ
・・・
I say it’s fine to be 60
You say it’s alright to be70
(・・・80.90と続きます)
長い旅路の果てに輝く何かが誰にでもあるさ
・・・・・」

70歳を過ぎ、来る年は6回目の干支を迎えます。人生90年、100年ともいわれる時代、これからも様々なことに好奇心を持ち、新しい扉を開けたいと思っています。もちろん京都「三条大橋」も目指します。