地方共同法人 日本下水道事業団

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50周年記念行事等準備室通信 第3号

『JSって すごいところ? らしい・・・!』

・・・これからの50年を支える皆様に

東海総合事務所次長 遠田 和行

いろんな意味で、JSはすごいところのようです。  他人事のような書きぶりですが、JSの外部に出向等の経験のない私にとっては、鏡に映る姿・・・いわゆる、委託団体や業界の各位等の外部の方のお話やJS出向後に母体に戻られた皆さん、JSを卒業された方々とのお付き合いの中からの声をお聞きしての感想です。
【受託業務】
処理場建設を中心に大きく貢献してきましたね。とりわけ小規模対応のOD法(DO 法の80%はJS関与!)は町村下水道の飛躍的な進展に貢献したものですね。JS 関与事業のストックはすごいです。日本下水道旅行団というほどチーム一丸となっての委託団体訪問・打合せ、昔の各県工事事務所と設計課の連携は、なかなかすごかった!けんかもしましたが、連携も良かった、お客様の前で本気で技術論のやり取りをしてましたね。
【組織体制】
意外とこじんまりとした体制で、よくぞこれで全国カバーしてますの~!!すごい!
小回りがききそうで意外と内部調整に時間がかかったり、と思えば思いっきりすごい事がバシッと短期間で決まったり・・・なんとも不可思議ですが、いいボタン(ツボ)を押すとすごい力を発揮します。
事務、土木、建築、機械、電気、水質各職種でも、『これはこの人に聞けば何とかなりそうな・・・?』とか、その他何でもオールマイティーの人とか、組織に見え隠れしたダイヤモンド的人材がいっぱいです。
【戸田研修】
委託団体の皆さんから、とても良い評判を聞きますね!ベテラン教授陣をはじめたくさんの名物教授が知られてます。なんとか次世代の方が育ちますように!
【技術開発・技術基準】
広い守備範囲、実績経験に基づく基準化・評価等々が確実にフィードバックされるとすばらしいサイクルですが、担当部署の人員・外注資金にご苦労ありとか・・・?すごい基準類!どこに何があるのか全部知ってる人がこれまたすごい!
【国際貢献】
JICA 研修等の協力をはじめ、ドイツ、アメリカへの留学やタイ、インドネシア、シリアやその他各国への専門家派遣、実は、国際感覚・ご経験を持った人たちがたくさん!インターナショナルな業務を実施できる大きな支えとなっていますね。
本当にすごいな~、仕事の仕方もすごいな~、いろんな意味ですごいな~!良好な生活環境支え、エンドユーザーである人々の健康を守る事業の一翼を担っている下水道事業は、形は変わってもなくなるわけではありません。『夢のような下水道』(昨日ちょっと新技術機構の塩路専務理事(前国交省下水道部長(元JS 理事))の講演をお聴きしてきたもので・・・)に向って、先人の成果を生かしつつ、変えるべきものは変え、世情の変化にも対応する、持続可能な組織JSでありますよう、わたくしめも『夢のようなJS』を描きつつ、長い目で見ればほんの少しばかりのこれから限られた期間ではありますが、微力ながら頑張りたいと思います。
入社した頃、こんなこと(もの)があればいいなぁ~と思っていいたことが、現実となり、今ではあって当たり前のこと(もの)になっています。例えば、昔手書きの設計書が今は積算システムに、手計算で管理諸費を計算していた実施・施工計画書及び全国集計がPURE システムに、業務カルテ(団体情報)の整備、ポケベル・テレカから携帯電話に、郵送FAX&電話連絡がメールシステムに・・・・等々。便利で効率的になったのに、その効果は・・・?
下水道も同じで下水道が無かった頃を知る人は下水道の良さを感じても、今の若い方はあってたり前、JS も下水道も次の夢をどう描く・・・さてどうする?仕事の内容や仕方は、これからどんどん変わっていくかもしれません。でも、やっぱり最後は人がするもの、人と人が繋がって事を進めるものであることには変わりが無いかと・・・。いろんな、たくさんの方と交わってください。
これからの50 年を支え、その基礎作りを担ってゆくであろう皆さん、日々の業務はつらい時もあろうか(そのほうが多い!?)と思いますが、場合によってはお付合いのある委託団体さんや職場のうるさい上司からのちょっとしたお褒めの言葉を楽しみに・・・?、健康(ご自身)第一、『明るく楽しく前向きに』、そして少しずつ積み重なったものがもっとすごいJSに結びつくかも、そして夢のJS のために!頑張りましょう!
以上、30 年ほどJS でお世話になっているおじさんの独り言でした。

JS人生を振り返り

西日本設計センター長 岡崎 賢一

1、JSとの出会い
昭和53年、日本下水道事業団の文字と初めて出会ったのは、学校の壁に貼られた一枚の求人募集一覧でした。
求人募集には、「日本道路公団」「日本鉄道建設公団」「水資源開発公団」「本州四国連絡橋公団」「日本住宅公団」など、当時の名だたる公団に紛れるように「日本下水道事業団」が掲載されていました。この時は「下水道って何?」「どんな仕事?」と、友人と話のネタにする程度でで、自分がまさか就職するとは夢にも思っていません。
親の家業を継ぐ予定で就職活動をすることもなく卒業研究に勤しむ毎日でしたが、父親から「継ぐ前に一度外の空気を吸ってこい」との世間ではありふれた一言で、遅ればせながら就職先を探すこととなりました。学生課に行くと、第2次オイルショックの影響で民間企業からの求人は少なく、公的機関は既に応募定員が埋まった状況で、残っていたのが「日本鉄道建設公団」「水資源開発公団」と「日本下水道事業団」でした。
結果的に「日本下水道事業団」に願書を出すのですが、その理由は「鉄建公団や水資源開発の現場は田舎や山の中だけど、下水道の現場は都会だろう。」と、田舎者が都会に住みたいだけの理由でした。当時の理事長が偶然に私の本籍地出身者であったことも何かの縁だったのか採用通知を受け取ることができました。
2.JS人生のスタート
昭和54年4月、最初に配置された部署は、虎の門の第18森ビル(現虎の門2丁目タワー)にあった東京支社設計第2課でした。夢だった東京生活のスタートです。
設計第2課は東日本の西半分が担当区域で、処理場建設の土木施設の設計と工事発注が主たる業務です。新人に与えられた最初の仕事は、千ページ以上もある設計基準(一次案)(二次案)を新規職員の人数分コピーすることでした。発売初期のコピー機はソート機能もなく、紙つまりと格闘しながら朝から晩まで1枚1枚コピーしていた記憶があります。
最初の出張は、補助申請の設計書を担当者の代わりに委託団体に届ける仕事でした。「届けるだけでいいから」と先輩の言葉を真に受けて、設計書を届けそのまま帰ろうとすると、委託団体から「なぜ内容を説明しないのか」と怒鳴られました。世の中には様々な不条理があることを認識する社会人として初めての洗礼でした。
設計書の原稿は手書きの時代です。下水道の標準歩掛はまだ不十分で建設省のその他事業や厚生省の歩掛を転用し作成していました。補助申請に間に合わすために徹夜で設計書を作成するなどは日常茶飯事で、若手職員は経験のために、図面作成・構造計算・数量計算を直営で作成し工事発注する他、業務終了後には手の空いた仲間で下水道技術書の読み合わせを行っていました。
下水道普及率が30%に満たない我が国が1日でも早く先進諸国に追いつくために、職員一同はひたすら多忙な業務を熟すことが普通だった、下水道事業の右肩上がりの勢いに訳も分からず呑み込まれていた頃です。
3.現場時代
昭和57年7月、愛媛工事事務所に転勤となります。当時の工事事務所は県内の主たる建設現場敷地内又は近隣に事務所を設置し、工事完成のたびに新たな現場に移転していました。当時の愛媛工事事務所は愛媛県東部に位置する西条市に設置されており、ここが第二の故郷となり、二十数年後には市役所の職員として勤務するなど知る由もありません。
最初に担当した工事は、西条市西条浄化センターの建設工事です。既に沈砂池ポンプ棟がニューマチックケーソン工法により沈埋しており、水処理施設建設の地盤改良のために載荷盛土により圧密沈下を促進していた時で、半年間は沈下量の測定だけという仕事でした。その後、杭打ち、掘削、躯体構築と続くのですが、主任監督員である旧建設省OB の工事事務所長は、ほとんどの業務を現場経験始めての24歳の若僧一人に任せきりです。
大手ゼネコン百戦錬磨の現場代理、監理技術者には、正しい指摘でもなかなか聞いてもらえず子ども扱いされ、所長が話をするとすんなり納得する態度に悔しい思いの毎日で、ひたすら「早く歳を取りたい」との見当違いの一心でした。数年後、様々な人の協力もあり、いくつかの資格を取得し所長や業者に何とか認めていただいたかな、と感じましたが、それは資格ではなくそれまでの業務姿勢を見ていたのだと思います。
現場監理は通水式まで経験することができました。現場では設計図書の歩掛に通りに人工や機械が配置され、構造体が図面の通り構築される様に臨場できた経験は、その後のJS 人生に大きな糧となりました。
4.変革期のなかで
平成10 年4 月、JS人生で一番の幸福期と感じた沖縄工事事務所勤務や兵庫県西宮市への出向等いくつかの部署を経て、独禁法違反騒動から落ち着きを取り戻しつつある本社計画部計画課へ配属されます。親父が頼りない跡取り息子に見切りをつけ家業を廃業し、ふらついていた腰がやっとJSに据わったのがこの時期です。
バブル崩壊後の長引く景気低迷に対応するために、遅れていた社会基盤施設の下水道に積極的な投資が行われます。受託事業費が予算額で4,000 億円を超えることが想定され、限られた人材で如何にこの事業を執行するかが喫緊の課題でした。この時期から一気にOA 化が進み、翌年にはPM 体制が導入されます。
計画課では、建設省からの委託による下水道事業量予測調査業務を担当しました。全国の公共団体にアンケートを送付し、将来の下水道事業量を推計するものです。雇用率が過去最低を示すなど地方財政は逼迫しており、ある程度の予想はしていましたが、返送されたアンケート用紙を集計すると、予想を大幅に上回るスピードでの事業量の減少でした。補助裏の財源確保が見込めず改築更新事業への投資が大幅に先送りになることを示しています。
建設省にそのことを報告すると、当時の担当者からは「このような状況で日本下水道事業団は大丈夫か?」と問いかけられました。早速に本社へ帰り、課内で協議し計画課案として組織改革案を提出しましたが、過去最大の事業費を執行していたJSでは取り上げられることはありませんでした。
翌年以降、皮肉にも調査結果を裏付けるように急速に事業費は減少していきます。これ以降、常に将来を予測し事前に対応しなければ持続的安定経営が出来ないことをJS自らが体験することになります。
5.その後のJS 人生日本下水道事業団は、徐々にJS と呼ばれるようになります。
PM 時代はPURE 操作によるJS 人生最大の危機を何とかやり過ごし、四国総合事務所では委託団体のクレーム処理に明け暮れた後、東西設計センターで長寿命化事業の対応に頭を抱えることになります。その間に、前述の西条市へ職員として派遣されたことは、委託団体の目線でJS を眺められる貴重な経験となりました。
JS はこれまで下水道施設の整備に邁進してきましたが、平成20 年度には下水道普及率が70%を超え、欧米に肩を並べたと感じ始めた頃から改築・更新の時代に入ります。「創る時代から育てる時代へ」や「新設から更新へ」等と表現され、新しい事業制度や交付金、それに応じるかのようにJS も組織改編が度々あり、自分の組織ながら本社部署の正式名称を覚えることをあきらめました。
近年のJS の状況は皆様の記憶に新しいところですが、総じて自分の中では下水道事業の変革の速さと多様化に翻弄された時代と言えます。
6.これからのJS 人生
昭和から平成になり、有名だった公団が一つ一つ名称を変える中で、昭和50 年の改変以降「日本下水事業団」の名称は変わっていません。これは、JSの基本的な組織の存在価値や公共団体の期待が揺るぎないものであり、諸先輩たちが時代のニーズに的確に応えてきた結果だと思います。
私のJS 人生も残り少なくなりましたが、これからも「我が国で唯一無二の先進的な下水道行政支援組織」であり続ける「日本下水事業団(JS)」に期待しながら、JSの一員として誇りを持ち、少しでもお役に立てる存在でありたいと思います。

「JS次の半世紀に向かって」とは違うけど

近畿・中国総合事務所次長 木下真一

1.能登半島でのウルトラマラソン大会

JS50 周年に少しは関連するかなと思い、まずはこの写真を最初に紹介します。
この場所は、2015 年10 月18 日能登半島すずウルトラマラソン大会(102 ㌔コース)における45 ㌔地点のものです。
私がこの大会を走っている途中、たまたま前後のランナーが途切れた瞬間の景色を撮った偶然の一枚です。写真の中には遥か能登半島の先端らしき部分が見え、そこまで走れば約80 ㌔地点、ゴールはそこから半島を右側に回り込む形で進んだところにあります。
自分の趣味としてここ数年、各地のマラソンのレースに出走していますが、その楽しみの一つは景色を眺めながら走ることです。特にウルトラマラソンは50 ㌔以上の距離のため、完走できるかどうかは走ってみなければわかりません。わかっていることはただ一歩一歩前に進むしかゴールにたどり着かないということだけです。(あきらめて途中棄権や制限時間オーバーで終了ということもありえますが。)
このウルトラマラソン大会の場合、スタートは夜明け前です。コースはスタートしてから、日の出を迎えいくつもの峠道や集落を通り過ぎ、いつの間にか太陽の光が頭上から降り注ぐ中、有名な輪島の千枚田の上り道を終えて、半島の先にある狼煙灯台に向かおうとしているところです。道はようやくフルマラソン(42 ㌔)の距離から先のウルトラマラソンの世界に入り、まだあまり疲労など感じず淡々と走っていたと記憶しています。
なお、この大会のテーマは「心はひとつ、道は厳しく、人はやさしく」とのことでした。
JSが設立50 周年を前にして、次の50 年に向かうところに関連して、100㌔ウルトラマラソンのこの写真、なんとなく似ているかな?と思いました。

こちらの写真は、前の45 ㌔付近の写真の前に位置する輪島千枚田の写真です。日本海に向かって段々と連なる田んぼの風景は、観光名所にもなっていますが、この時期は刈入れが終わり、観光客がまばらになった長閑のどかな風景となっていました。ただ走る方としては、ここまで行くのに海岸線から随分と坂道を上ったところだったので、ようやく上り坂が終わりほっと一息というところでした。

2.大阪府吹田市にある大阪万博公園の太陽の塔

この2 枚の写真は、大阪府吹田市の万博公園に立つ、太陽の塔を写したものです。
1970 年の大阪万博から50 年弱、かつてのパビリオンはほとんど撤去され景観は大きな変貌を遂げた中、緑の森の中に太陽の塔がいまだに大きな存在感を示しています。
大阪では、この太陽の塔、平成30 年3 月の内部公開のニュースや、それとは別に新たな万博誘致の話もあり、かつての大阪万国博覧会のシンボルとして、ちょっとした話題となっています。
私は、平成28 年4 月から大阪勤務となり、この近くに住んでいるので、休日たまにマラソン練習コースとして太陽の塔を目指して走り、歩道のカーブを曲がった先に忽然と現れる太陽の塔に感動し、そして万博公園の周りを巡っています。

3.山口県岩国市の錦帯橋

この写真は、山口県岩国市にある錦帯橋です。平成29 年3 月にこの錦帯橋の周りを走るハーフマラソンを走るため訪れたときに写したものです。
おそらく100 年以上、それほど変わらぬ姿でこの場所にあるものです。
ただし、景色は変わらないですが、川の氾濫や橋の老朽化により石の橋脚や木材等の具材は改修と修繕を何度も繰り返し行っており、その結果としてこの景観を保っています。
こちらのレースのコースは最初錦帯橋の横をスタートしてから街中を抜け、山道を川の上流に向かって進み折り返して戻ります。このため行きは主に上り、帰りは主に下ります。帰りのコースを走っていると道路標識の錦帯橋何キロとあるのが少なくなりやがてゴールとなるのが走っていて励みとなりました。

4.各地を巡って

JS勤務先の異動もあり、全国各地のマラソン大会を走って来て、ここまで全国30 以上の都道府県のマラソン大会を走って来ました。
ユニークな大会や地域の名産品や観光名所を巡る大会などもあり、その都度地域の特色などに新鮮な発見があります。自分としては、せっかくだから各都道府県のどれか一つの大会に参加して、自分なりの全国走覇を
しようかなとも思っています。また、このように全国の大会を走ってから随分月日も経過し、自分の感覚としてなんとなく、初対面の方でも人によって自分と同じような市民ランナー、あるいは陸上関係者が分かるようになった気がしています。
このため、仕事で県市町村に挨拶に伺った時などには、市民ランナーらしき人には雑談として「ところで今度はいつ、どのレースを走る予定ですか?」と聞いて「今度は、○月の○○のレースです。どこかで会いましたっけ?」と回答をもらい、その後、その市町村のマラソン大会の話をすることもたまにあります。
また、市町村職員との懇談会の場では、過去に走った各地のマラソン大会の様子や特色等を公共団体の方と話をしたり、あるいはレースが行われる地域の自慢や隠れた名物などを聞いたりして、楽しく時間を過ごすこと多々あります。そして、このような情報を基に、次に走るレースの場所を選ぶこともあり楽しみは尽きません。

勤続30 年を振り返る

四国総合事務所長 笹井 勇人

JS は1972 年の創立以来、2022 年に50 周年を迎えます。半世紀という永きに渡りJS を支えてくださいました皆様のおかげであります。50 周年記念行事準備室より寄稿文の執筆依頼をいただきましたので、折角の機会ととらえ、お礼の意味を含めてこれまでの勤務を振り返ってみます。
私は1987 年に入社して今年で30 周年を迎え、2017 年11 月に永続勤務表彰を受けました。入社してから今日までの配属先は次の表のようになります。これまでに17 の部署を経験しましたので、10 年ごとに区切って、当時を思い出してみました。

●入社後の配属先履歴

① 初年から10 年目まで
入社後の配属先は東京支社・設計第三課であり、諸先輩方に下水道事業のイロハを教わりました。主に東京都からの出向の方に指導していただきましたが、特に記憶に残っているのは現地踏査の重要性です。処理場建設用地を隈なく歩き、場内だけではなく周辺の街並みや放流先の状況までつぶさに観察して設計の材料としていました。帰りには靴擦れが起きていましたが、チューターの業務への熱い姿勢の中に優しさを感じました。当時は練馬区中村橋にあった相生荘(事業団の独身寮)に住んでおり、戸田まで近かったことからも、休日には研修部のテニスコートを利用していました。今でもテニスを趣味として熱中できていることには非常に感謝しています。
その後、3 つの事務所で工事監督業務に付き、特に広島、高知では出張所に1 人勤務でした。そのせいもあってか、この時に結婚し、以降家族で転居することとなります。次に技術開発課の汚泥グループに所属しました。与えられたテーマが排ガス、重金属、ダイオキシンなどったため、私にとっては初めて聞く専門用語ばかりで最初は???マークが頭の中を駆け巡っていましたが、上司の指導によって研究の楽しさを味わうことが出来ました。特に、アメリカでの国際会議(シカゴ会議とWEF)で論文発表の機会を得たことは非常に感慨深く、いまだにあの時のワクワクとドキドキが忘れられません。
東京支社技術援助課勤務では供用開始した施設の事後点検と処理機能などの調査業務を担当しており、毎週と言っていいほどの回数で出張していた感じがあります。おかげさまで、東日本の全都道県に行くことができ、テレビを見ていて知っている土地が出てくると子供に自慢できるのがうれしいです(笑)。
この時代は設計、施工管理、技術開発及び調査などの各セクションでの業務を通して、優しい先輩方から仕事に臨む姿勢を学ばせていただきました。

② 11 年から20 年目まで
1997 年度よりJS の組織体制がPM 制となり、大阪支社・PM 室には(いい意味で)海千山千の出向者と裏事情をあまり知らない私がPMR(プロジェクトマネジャー)として配属されました。戦略を持って業務(トラブル事象への措置や団体への対応)に取り組まれている方々の姿勢が衝撃的で、マネジメントにはストラテジーが必要だと強く感じました。次の異動は国際建設技術協会への出向でした。当協会は主にODA やJICA 関連の調査業務を行う社団法人です。年間6 回ほどの海外出張があり、東南アジア諸国をはじめカザフスタン、マケドニア、ジブチなど、自分では旅行に行かない国に行くことができました。それぞれの国の匂いや色、そして味を体験しました。さらには、相手国が日本をどう見ているかなどを考えると、自国をもっと知ろうという切っ掛けになりました。2002 年から組織改革によって総合事務所制となり、個人的には2 度目のPMR として九州総合へ赴任しました。担当は佐賀、長崎であり、これまでの経験を活かしながら、プロジェクト進捗や営業活動に充実した日を送っていました。しかし、今でも鮮明に覚えている失敗として、協定金額の大幅な変更を団体にお願いしたことがあります。協定範囲、金額および締結時期の思い違いをしていたことによって生じたものです。一言で行ってしまえば、コミュニケーション不足が原因です。所長と団体に謝罪に行き、団体の課長と何度も協議をして、追加の協定を締結することで事なきを得ました。以降は、マイルストーン管理(プロジェクトの工程で主要ポイントを設定し、目標に向けて計画通りに進んでいるかを確認すること)を徹底して業務に当たるようにしました。
この10 年で通算7.5 年のPMR と2 年間の外部出向を経験しました。プロジェクトチームのメンバーや関係者に支えられ、これまでに得てきた知識を事業進捗に生かすことができたと感じています。

③ 21 年目から現在まで
2007 年からは子供の高校入学もあり、単身赴任生活が始まります。役職として管理職となり、組織をまとめる立場になりました。当時は長寿命化支援制度が始まったばかりで、JS 手法の説明のために関係団体や各種の講演会に奔走したことを思い出します。2010 年から2 年間、西条市に出向することとなりました。西条市とは2006 年から交流人事を実施しており、私で三代目の派遣者となります。ここでは住民対応や議会対応そして意思決定までのプロセスを経験することができました。その後、事業団に戻ってから、団体側からの目線で見るとことによって問題の解決に生かされていることが多くあり、出向経験が非常に役立っています。
2012 年からは県事務所長、総合事務所と設計センターの次長を経て、現在総合事務所長と歩んできました。プロジェクト関係者のみならず人事関係者や首長などいろいろな人との交流を通じて、自分は生かされていると思うことが多くなりました。

この30 年を振り返ってきましたが、時代が変遷していくスピード感覚は、年を追うごとに速く(自分が年齢を重ねているせいかもしれませんが…)、そして実施している業務内容は複雑かつ多様に変化してきています。JS 創立当初からの15 年は経験していませんが、その時の団体が持っていたJS に対する信頼と現在のそれとでは大きく変化しているのだろうと思います。また、下水道普及率を向上させるために建設主体で実施していた時代に比べると、今はその時の信用とは別のものが求められている気がします。
そう考えると、人口減少や財政問題などの課題を抱える今だからこそ、時代の要請に応じた新たな信用を積み上げるチャンスだと思います。そのためには委託をしていただく団体の方々に「良いもの」を提供するのはもちろんのこと、加えて「ソリューションパートナー」を掲げているからにはそれを実践していくプロセス上においても満足してもらわなければならないと考えます。事業団職員の一人ひとりがそれを意識して50 年、そして100年を迎えることができるといいと思います。

エースプランの思い出

九州総合事務所次長 山口 正久

50 周年記念に昔話をということで、エースプランの思い出をよもやま話として語りたい。その理由は、①最近は「エースプラン」を経験した職員も少なくなってきたこと。②やはり昔話としてなら、自身が技師や主査だった頃の話が適当と考えたことによる。
財政投融資資金を活用した下水汚泥広域処理事業(エースプラン)は、日本下水道事業団が複数の地方公共団体の要請を受けて実施するもので、昭和61 年度に兵庫東地域と兵庫西地域、昭和62 年度に大阪北東地域及び大阪南地域おいて事業着手した。その後、ご案内の通り国の「特殊法人等整理合理化計画」(平成13 年12 月閣議決定)において同事業は廃止・地方移管されることとなり、平成14 年度には兵庫地域、平成15 年度には大阪地域の事業が廃止・移管され現在に至っている。
小職は平成元年に日本下水道事業団(JS)へ入社し、3 年目の平成3 年4 月から平成5 年8 月までの2 年5 か月を大阪南広域処理事務所に土木職として勤務した。当時、大阪府高石市高師浜にある高石送泥ポンプ場から堺市石津川下水処理場(現石津川水再生センター)へ向けて送泥管の敷設を行っており、当該送泥管の設計と施工及び石津川送泥ポンプ場の施工を担当した。
記憶が若干あやふやであるが、J-web の「力の源泉DB」でも資料が見当たらないので、少々の記憶違いはご容赦いただきたい。口径250~300 のダクタイル鋳鉄管を府道204 号線に沿って敷設していった記憶がある。

1.当該年度施行実施ルートの選定
各広域処理区の中長期計画に基づいて、各年度における送泥管敷設事業費はだいたい決まっているが、他工事の状況(橋梁添架工を府の橋梁補修工事にあわせる、府道・市道等の新舗装工事前に行う等)により、必ずしも下流から順次敷設するわけではない。そのため事前に他事業の管理者へ打ち合わせに行ったり連絡会議などに出席することが多かった。そのため泉南や堺市だけでなく、蒲生の国道事務所にも出かけることがあった。「放出」という地名の読みを覚えたのもこのころである。帰りに寄り道して食べた鶴橋の焼肉も旨かった。

2.占用許可と使用許可
現在多くの地域では、道路管理者に提出する道路占用許可は発注者が行い、当該許可に基づいて発注された工事の受注者が所轄警察への道路使用許可を申請することが多いと思う。今は知らないが当時の大阪府下では、占用許可と使用許可の双方を発注者において申請することになっていた。使用許可書の内容は、占用許可とほとんど同じなのだが、工事現場の状況(道路の使用状況)をポンチ絵で添付しなければならない。そのため、バックホウの寸法や旋回半径を調べたり、2t、4tダンプの轍幅を調べたりして、へたくそな絵に落とし込んでいた。現場がどんな施工をするかについて、大いに勉強になった。
また、警察さんとなかよくしているとこんな事もある。当時、石津町の深夜営業のハンバーグチェーン店付近で夜間工事を施工中だったのだが、暴走族っぽいトサカのお兄ちゃんたちが改造車っぽい車で夜遅くまでたむろして五月蝿かった。ある時、私服の刑事さんたちが現場にやってきて協力してほしいという。受注業者がハンバーグ店の反対車線にある空き地を駐車場がわりに借用していたのだが、そこに刑事さんたちの車(ピカピカのクラウン)を止めさせてほしいという。そこで車の中からビデオカメラでトサカ君の顔や改造車っぽい車のナンバープレートを全部記録して帰って行った。クラウンも刑事さんたちの磨き抜かれた革靴も、はっきり言って現場ですごく目立ったが、見つかった気配はなかった。悪い事はできないものである。

3.近接協議
既設水道管、ガス管などについて各管理者との近接協議が必要である。机上で離隔等の確認を下協議するとともに、現地立会が原則で要試掘のときもある。
今でも道を歩いている時に、白スプレーで現地立会の跡を見つけたりすると、ほうこの下に埋設管がこんな位置に入っているのか、などと感慨深く面白い。
ただ、現場が当該既設管の完成図書通りに施工されていることはあまりなかった。確かに自分の送泥管も夜間工事の一発勝負なところがあったので、直管・曲管の種類と数までは間違いないとしても、厳密な位置までは「そんなもんだよなあ」という感じではあった。

4.地元対応
当時堺市内では、各地区に自治会長がおり、当該自治会長へ説明することで地区住民を一同に集めた地元説明会というのはなかった(兵庫東や兵庫西は、地元説明会があったと思う)。自治会長には、呼ばれたり此方から伺ったり結構な頻度でお会いして工事状況等の説明を行った。そうこうしている内にある時気付いたのだが、JS の担当者が行くのとだいたい同じ頻度で堺市(要請団体)の方が、その自治会長の下へご説明に来ておられた。内容は、堺市の石津川処理場全般のことであったり、JS のエース事業についてであったり。
要するに、JS と地元市町村では「信用力」が全然違うのである。こう書くと誤解も考えられるので、ハッキリいうと「何か問題があった時に、クレームを入れる(入れられる)のは、地元市町村(のご担当)」ということ。この「信用力」というのは、市町村が下水道事業の事業主体である以上、JS 側で備えることはできないと思われる。平成27 年度のJS の団法改正で「下水道工事代行制度」が創設されたが、その中でも「地元との調整」は市町村側に残っている。
よくこの「下水道工事代行制度」の説明で、「地元説明が市町村側に残っているのはJS 側の体制が整っていないから」みたいな説明を聞くが、ちょっとニュアンスが違うのではなかろうか。JS が「ハイ分かりました。地元調整もやりますよ」といったとしても、地元住民の方が、うんとはいわないのではなかろうか。

5.現場監督と設計変更
現場監督は、小職と業務管理センターから委託を受けた監理員さんの二人体制で行った。小職が当初設計、設計変更及び現場監督を行うのだが、施工監理における資料や施工計画の調整を監理員さんに補助してもらっていた。
送泥管の敷設工事は、そのほとんどが開削工法なので、夜間工事で昼間解放。管材はダクタイル鋳鉄管なので、水道の配水管敷設工事とほぼ同じである。簡単な工事のように見えるが、実際に現場で施工してみると当初設計通りには全然いかない。
まずは舗装。道路というのは維持集修繕工事として切削・オーバーレイを何度も繰り返しているのが普通である。そうすると転圧により地盤が締固まって(沈下して)現場の舗装厚は設計図面の通りとはいかなくなる。
また当時の府道204 号線では、路盤材に鉱さいが使われており、これが水硬性を持つため、カチンカチンに固まって通常のバックホウでは掘削できない。そこでアイオンを持ってきて叩き割りながら掘削することにしたのだが、これがやたらと五月蝿い。
深夜、堺市のど真ん中の住宅密集地、片道一車線(歩道あり)の場所で、分厚い舗装とカチンカチンの路盤材をアイオンでけたたましく施工をしたので、だいぶ近隣住民からの苦情が出た。何とかアイオン施工をやめたかったのだが、当時はニブラーもまだ一般的ではなく歩掛もなかった。カップのでかいバックホウを持ってきたりいろいろ試行錯誤を繰り返したが、結局舗装カッターを2本ではなく、掘削幅内に複数本鉱さい路盤まで入れながら施工することとした。ちなみに路盤は産廃(がれき類)として安定型処分場へ処分した。
路盤材も撤去できたらいよいよ地山の掘削だが、水道管、ガス管等の既設管の位置に十分注意しなければならない。事前の試掘等で場所は大体わかるのだが、急に曲がっていることもままある。その他、正体がよく分からい不明管が突如現れることもある。多市街化の流れで忘れ去られた農業用排水の管やカルバートだと思われた。送泥管は通常の下水管のように自然流下の勾配を気にしなくて良いので、そんな時は、曲管を配して逃げることができる。どうしても配管できないときは、その夜の工事は一時中断して対策を練り直すのだが、そんなケースはあまりなかったように思う。
こうして考えてみると、送泥管敷設工事も他の土木工事と同様、土中に不確定要素が多々あり、掘削してみるまでが一つの勝負。その後の埋戻しや仮復旧とその養生、本復旧等と比べると施工等に係るストレスはそんなに高くなかったように記憶している。

6.おわりに
とりとめないよもやま話。まだまだ思い出すことも可能であるが、シラフならここまでとしたい。技術者は経験が命といって良いほど重要である。最盛期は、日中の9 時5 時は設計変更作業で、夜間の9 時5 時は現場監督であったが、技術者としては大変有意義な経験をさせてもらったと感謝している。今後ともJS が若手技術者により良い経験を体験させる場として機能できることを期待したい。

第9 回 マンホールナイトに参加して

50 周年記念事業等準備室専門幹 中島 彰男

準備室第3 号メルマガは、マンホールナイトに参加したので、その報告をします。さて、多くの皆さんは、「えー、マンホールナイトって何だ?JSの50 周年記念とどういう関係があるのか?」と思われたかと思います。
本メルマガ創刊号をお読みになった方は覚えているかと思いますが、創業半世紀(50周年)の記念として、以下のことを基本コンセプトとして創刊号に提示させていただきました。
「基本コンセプトとして、役職員等全員が50 周年を迎える事を認識し、JS 及び出向者を含む過去の役職員がしてきた実績に誇りと愛着を持ち、JS の明るい未来を信じかつその希望を具現化する」
つまり今までの「○○年の歩み」と題して、JS業務の履歴のみを記念誌に記載するだけでなく、成功の元となった失敗事例や、今のJSを作り上げてきた先人たちのいろいろな取り組み、そして未来への道標を示す、などがあります。
下水道事業は、多くの国民から信頼され十分その必要性は認識されていますが、一方まだまだ迷惑施設であるという側面は残っています。
そのような中で、私たちJSもただ、下水道屋として専門分野に閉じこもるのではなく、広くいろいろな世界(価値観)にふれ、下水道のナショナルセンターとして、下水道文化の面からも下水道の発展に寄与していくべきでありましょう。
そこで、下水道とはまったく縁のない人たち、団体が下水道のさまざまな部分例えば下水道管渠や処理水、処理水が創り出す水の景観(アクアスケープ)その他に愛着を持って取り組んでいる人、団体が増えつつあります。

そのような多くの個人・団体の中から今回は、マンホール蓋に愛着を持つ人たちの集まりである「マンホールナイト」のイベントに参加してきましたので、その報告を簡単にします。
マンホールナイトは2011/11/2(いいふた)に第1 回が開かれ、今年で第9 回となりました。

プログラム

当日のプログラムから赤枠の3題をご紹介したいと思います。

① ちょっとお知らせ♪
マンホールのふたをデザインした壁掛けと制作した中嶋さん=前橋市で
② 対談・撤去蓋の行く末を語る
悲しい話
うれしい話

前橋市の取り組みやマンホール蓋への関心の高まりから

岡崎市が明日・明後日せり売りを開催
*明日・明後日とは11・4,5です。

前橋市のマンホール蓋のTシャツと横浜市のマンホール蓋のTシャツ

③ 写真コンテスト

マンホールナイト参加者が十分吟味して投票。参加者は、下水道屋でなく一般の方々。

大賞
「むしゃむしゃ」
茶虎猫丸
第2位
「洗濯日和」
白浜公平
地宙飛行士賞
marikobatcha
林丈二賞(特別賞)
「変な顔」
宮澤愛
マンホールカード本賞(特別賞)
「おじいちゃんにもらったマンホールカード」
yoooooooooooooko

いかがでしたか?特にマンホールは今、巷で結構話題になっており、下水協がやっている下水道広報プラットホーム(GKP)が事務局で全国の各自治体が配布しているマンホールカードは、知っておられる方も多いでしょう。
また、マンホールに興味を持って活動している団体も、今回紹介したマンホールナイトはじめ、主だったところだけでも路上観察学会、日本マンホール学会、G&U技術研究センターなどがあります。

昨年(2017 年)12 月5 日のTBS系【マツコの知らない世界】でもマンホールの蓋を取り上げ、マンホールナイトの紹介もしていたのを、見た方もいらっしゃるかと思います。

ぜひ今度時間の空いた休日などに、路上観察などに出かけてみるのもお勧めです。
また「こんなんあるよ」等マンホール蓋に限らず、下水道関連の面白い(interesting)団体、個人、イベント等見つけられましたら、準備室までご一報いただければ幸いです。