地方共同法人 日本下水道事業団

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50周年記念行事等準備室通信 第2号

「JS 研修仲間38 回目の集い」

理事 畑田 正憲

社内報「MIZUSUMASHI」2014.10 の寄稿コーナー「JS研修仲間35 回目の集い」の続報として「JS 研修仲間38 回目の集い」を投稿させて頂きます。この研修は、昭和55年7月7日~26日まで3週間にわたって開催された「昭和55年度 工事監督管理・工事管理コース(第2回)」で、合わせて28名の研修生が参加されました。研修コースの幹事は気力、体力、酒力に勝り、熱い心で仲間を引っ張って行く所沢市から参加の大工原貞夫さん。副幹事も幹事のよきパートナーとして研修仲間をまとめて来られた宇都宮市の篠崎孝さん、研修担当は東京都から出向されていた温和で冷静沈着な戸辺貞次郎さんと土屋弘さんでした。
なんと38 年もたったのかと思いつつ、今年の9月神奈川県横浜・鎌倉市で開催された総会・旅行会に参加してきました。第1回目は沖縄県で二人の大城さんが企画され、その後は、毎年持ち回りで幹事を決め2泊3日の旅行会(最近は1泊2日)を兼ねた総会を開催してきました。(別表)
来年は、当時JS入社3年目の最年少として研修に参加した私が担当することになりました。研修センターで39年ぶりに記念写真を撮ることをメインイベントとした総会を開催したいと考えています。
たった3週間研修を受講しただけですが、なぜ40年近くも続く仲間になっていったのか・・・
当時受講された方のほとんどが下水道に携わってから日が浅く、下水道の法体系、予算・財源、設計・施工技術など体系的に教えてくれる機関が唯一JS研修センターでした。特に地方から参加された方は、壮行会を開催され、餞別をもらって市町村の代表として参加しているという自覚が強く、昼間は聞き漏らすまいとして真剣に講義に耳を傾け、夜の部は、復習に時間を費やす。緊張感のあった研修初日、遠慮気味な数日間を過ぎたあたりから、今と違って、パソコンやスマホがあるわけでなし、就寝するまでの長い時間は、お互いの出身地や勤務先の状況、今抱えている問題、家族、趣味のことなどお酒の力も手伝って「同じ釜の飯仲間」になって行ったことを覚えています。
研修終了の日が近づくにつれてこれでお別れかと思う頃には、濃密な時間を共に過ごした研修仲間との再会を約束するとともに、その機会(場)を提供しているJSを身近で信頼できる機関としての印象を後輩に伝えて行く。やがて多くの研修生を通じて、JSの良き理解者、支援者が全国へと広がって行くことになります。
bJSが持続的に活動して行くことのできる社会的な基盤は、このようにして形成されてきたのではないかと、最近、強く考えるようになりました。写真は、当時の研修受講終了式のものです。来年は研修センターでの撮影予定の記念写真をお見せしたいと思っています。

I’m proud of JS!

研修センター所長 細川 顕仁

「I’m proud of …」、「I love …」・・・今から丁度20 年前、アメリカ合衆国環境保護庁(USEPA)へ交流技術者として派遣された時にアメリカ人がよく発する言葉だなぁと感じた文言です。日本語の「誇りを持っている」、「愛している」ほど重いニュアンスではないのでしょうが、家族や仕事などの話になるとすぐ冒頭の言葉を使う印象が残っています。
皆さん、特にプロパーの方々、JS を愛していますか?JS という組織、その仕事に誇りを持っていますか?
私はJS という組織、そしてそこに所属し活動している自分に誇りを持っています。JS に対する愛情も持っています。正直言って、これまでに腹立って辞めたくなったことは幾度もありました。何でこんな上ばかり見る平目や茶坊主のような奴ら、「判断しない・できない・逃げる」チキンのような奴らを取り立てるんだ?と組織に対して不信感を抱いたこともありました。でも、そんなネガティブな感情をひっくるめてもJS を愛しているんですね。だから悪い部分は何とか改善しなきゃと思い、私なりにいい方向に向かうよう発言・行動してきたつもりですし、これからもしていくつもりです(いくら煙たがられても)。
何故愛してしまったか?よく分からないですが、誇りを持てる組織、仕事だと心から思えるようになったということからでしょうか。では組織、仕事に誇りを持つようになったのは何時頃か・・・
これは、外に出て、外からJS を、自分がやってきた/これからやるであろう仕事を見て、そして様々な人と色々意見交換をしてからです。私は20 代後半~30 代後半の多くの時間をJS の外で過ごしました。当時の(財)下水道業務管理センター、建設省、USEPA、そしてインドネシア共和国公共事業省。JS を客観的に見ることができ、外からの率直な評価も聞くことができました。それで、JSはなんて素晴らしい仕組み、組織なんだと心の底から思うようになり、同時に自分の業務に対する誇りも持てるようになりました。その一端を当時の想い出とともに以下に紹介させていただきます。
写真-1はボストンのコナー博士です。当時進行中であったボストンハーバープロジェクト(ボストン湾水質改善のための大規模高度処理施設の建設)を視察に行った時のものです。博士はその時、下水道から離れていたのですが(ボストン水族館副館長)、私の視察に同行してくれました(+ボストン名物クラムチャウダーをご馳走していただきました。)。コナー博士はJS のことを良くご存知で、「いい組織だ。アメリカにも欲しい。」とおっしゃり、他のアメリカ人にも「素晴らしい組織」と紹介してくれ、アメリカ人並みに調子のいい私は、この頃から自己紹介の時に必ずI’m proud of JS!と言うようになってしまいました。

写真-1 コナー博士
オハイオ州シンシナティから自家用車で訪れました。この時はボストン、クランストン(ロードアイランド州)、ニューヨーク、アトランティックシティ、ワシントンDCなどを巡る15 日間の車旅でした。1 年の滞米期間中に25 の州を訪問することができ、私の経験値は大幅にUPしました!
(ちなみに移動費用等は全て自腹でした)

写真-2は滞米期間の後半に毎週のように訪れ、色々話を聞いたり、自治体 との協議に立ち合わせていただいていたオハイオ州環境保護庁の長官とスタッ フです。彼らにも大変お世話になり、特に左から2 番目のページマンとは色々 ディスカッションしました。彼にJS の説明(人材プール機関、代行機関+技術 開発・人材育成)をした時、「それはとてもいい仕組みだ!日本は素晴らしい」 と大層感心されたことが強く記憶に残っています。

写真-2 Ohio EPA長官とスタッフ
Ohio EPA 本部は州都コロンバスにあり、車で2 時間程かけて通っていました。ページマンはイラン人で、アメリカ留学中にイラン革命が起こったため帰国できなくなり、そのまま居座ったとのこと。写真には入っていませんが、インド人スタッフにもお世話になりました。たまたまでしょうが、親日家が多かったですね。

アメリカから帰国して9 ヶ月で今度はJICA 専門家(下水排水政策指導)としてジャカルタに行くことになりました。日本人が全くいない環境にいきなりポーンと放り込まれた2 年前と異なり、この時は、安全面からの制約は多いものの、その他の生活面での苦労は少なかったです(家の近くのビルが爆破されたことや職場に爆破予告の電話がかかってきて避難したことなどはありました)。ただ、仕事はストレスがかなり溜まりました。プロジェクトは思うように進まず、現地政府の人達(特に先進国への留学経験があるエリート層)は評論家みたいなことばかり言い、現実とかけ離れたことや無茶な要求をしてくる。一方スタッフは全くと言っていいほど動かない。忍耐力がつきました、本当に。で、ここでもJS の素晴らしさを実感しました。それは高度な内容で分かりやすくとりまとめられた各種マニュアル類。現地で下水道プロジェクトを実施していくために必要な手引書や手順書を幾つか作成したのですが、その際に改めて見て感心しました。凄いですよ、JS のマニュアル類は。カウンターパートなどはやはりインドネシアにもJS のような組織が欲しいと言っていましたね。

写真-3 娘(0 歳)と使用人達
仕事とは全く関係ないのですが、うちで雇っていた私用車運転手、ベビーシッター、メイド。この他にもう一人公用車の運転手も雇っていました。Nyonya(奥様)達の中には使用人とのトラブルに悩む人も多くいましたが、お蔭様でうちは大丈夫でした。ベビーシッターのイース(1 番左)は当時17 歳。可愛くて使用人達に大人気でした!

JS という下水道管理者への支援機関、その「仕組み」そのもの、公共団体等に偏在している技術者をプールし活用するという「ヒトの多様性と力」、誰がやってもある一定水準の品質担保を可能とする「武器(ツール類)」の整備、それから本稿では触れられませんでしたが実践的な技術の開発力と人材の育成力・・・本当に素晴らしいですよ。都市形成の際に最初から下水道施設を設置していた他の先進国と異なり、後追いで、様々な制約条件の下で一気に下水道を整備していった日本において、JS はそれを可能とした最大の功労者の一つだと胸を張って言えると思います。
最近若い職員の採用が増えて非常に嬉しく思っているのですが、最後に若手職員の皆さんへ。まだ仕事等を憶えていくことで精一杯で、この組織や自分のやっている仕事について深く考えることはあまりないと思いますが、今後機会があれば「外」へ出て、そして少し離れたところから顧みてみて下さい。中にいると分からない「JS の良さ」が見えてきます。きっと「誇りを持てる組織」と実感できますよ。それから何より、「外」での経験は皆さん自身にとって絶対プラスになります。大きく成長する契機にもなりますよ。是非色んなチャンスへ積極的に応じ、人との出会いを大切にし、経験値を上げていって下さい。そして、この誇りある組織の次の明るい50 年に向けて一緒に踏み出しましょう!
I sincerely appreciate JS! Terima kasih banyak!

JS50周年を迎えるにあたり

東北総合事務所長 金子 昭人

●はじめに
JS50 周年を向かえるにあたり、自らの入社以来の回顧録をよせさせていただくとともに、今後も60、70 年と続きますよう微力ながら応援いたします。

●回顧録
(1)20 台(体重78kg→69kg)
新潟の田舎から突然大都会東京に出てきました。新潟ではスーパーカブ、K トラで移動していたので、特急券の意味さえ知りませんでした。
上越新幹線開通と私のJS 入社は同じ昭和58 年です。皆さん大宮上野間のリレー号は知っていますか。(リレー号は上野まで開通した後は踊り子に転用されていました。)
入社1 年目の業務は、設計書(B4)のコピーと折及びA3 図面を青焼きしてB5 に折こと。それ以外は設計指針を読む。数量計算書のチェックでした。今の新人に比べ、業務能力は低かったと思います。
この頃の性格:わがまま。無鉄砲。初めての上司に言ってしまいました。「3 月で横浜市に戻る課長に説明する必要があるのですか?」(課長激怒。)
お酒:飲むと掌の皮が剥ける症状がありました。
(2)30 台(結婚時75kg→85kg)
JS のおかげで、結婚できました。
2 度目の設計課の時、30 枚の資料を1 時間もかけて説明しほっとしていたら、打合せ終了時に処理場長から「ガンバって説明してくれてありがとう」を言われました。この時、この仕事やり方はまずいと思い、①相手に何を伝えるかを明確にする②資料の行間を説明する手法に変えました。
土日どれだけ連続して出勤するのかを競って残業していた。(今考えれば、ただ若いだけの人だった)
性格:上部組織に対して高圧的 お酒:計画設計時代は出社する日は飲む日。(出張が多かったので)
★船橋市の苦労
処理場200 億円+管渠200 億円の業務を引き継いだが、毎週、市から予算増額となったので「何か発注して」と頼まれ、発注調整を2 年間していた時が辛かったです。市の担当者から期限をきられた後はこう言われていました。「金子さん資料提出は、いつも〆切の次日の朝7 時ですよね」 このおかげで、業務を早くことに気をつけるようになったのかな?(3)40 台(たぶん90kg→100kg)
PMR の時代。団体の担当者は、1 年毎にPMR に求める水準が高くなり、仕事が楽にならない。そんな理不尽を毎日感じていて、周りはほとんど見えていなかった。設計書が完成したらPJ グループでの飲みにケーションは出向の土木担当者していました。この頃から、PJ に対してPMR として業務方針を作成し、JS、コンサル担当に説明するようになりました。
また、東北の4 名のPMR の結束が強く、真夜中のボーリング、家族での芋煮会・スキーと家族との繋がりもありました。
うちの息子・娘は根岸君ことを今でも、「ねぎしー」と呼び捨てる程、当時の印象が強く残っているようです。
★気仙沼市の思い
20 年ぶりにJS 委託した団体で、東北で炭化炉の2 号基を受託した。MICS 事業であることから、廃掃法の一般施設等の関連機関への届出・説明に全部(20 回)行きました。PMRを総合事務所(仙台)に配置したからできたことだと思います。
実施設計の思い出は人生で一番、議事録を書いたこと、津波対策で建築物の壁を地上から2m まではRC 構造で対策したことです。3.11 の震災で処理場に隣接する湾が燃えていた画像を見たときは泣きました。今年から東北で支援に携われことに誇りを感じます。
性格:怖いと言われていた。(今でも?) お酒:あまり飲んでいない。
(5)50 台(MAX106kg→98kg)
初めて管理職になって思ったことは、「若手の育成しなければ」。おかげで、今でも研修した若手と飲めて、遊べることが成果です。
入社した時の出向者から、「金子。管理職で何するの?」と言われ、若手の指導、課をまとめてなどと答えたら、「部下を結婚させるのが課長の仕事」と叱られ、3 回ほど合コンを開催しましたが、成果はゼロです。何とか1 組達成したいです。
性格:体重の増加と共に丸くなったと思われる。 お酒:ほぼ毎日飲み歩いている。

●そして、今後
引き続き東北復興を支援し、少しでも早くより良い生活環境を住民に提供するために、職員と一丸となって頑張ってまいります。
また、39/50 年(予定)もJS 歴史に携われたことを誇りに思っています。

人口問題に対応する下水道計画とは

関東北陸総合事務所次長 有馬 直毅

JSは、今年11 月に設立45 年を迎えます。節目の50 年も間もなくです。ついては、来る1 世紀を目指して、何か書いてほしいと準備室よりご依頼がありました。急なことでもあり、なかなか、頭の整理もつきませんので、無責任に1 点のみ、「つぶやき」ます。
本年、平成29 年は、西暦で2017 年。50 年後といえば、平成79 年、2067 年となるようです。厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所が、本年4 月に発表した公表資料によりますと、概ね50 年後の2065 年の推計人口は、8,808 万人となっています。
かたや、本年8 月に国土交通省が発表した資料によりますと、平成28 年度末の下水道処理人口普及率は、78.3%、下水道整備人口は、9,982 万人となっています。前出の将来推計人口では、平成65 年、2053 年に、1 億人を割る9,924 万人となるようです。
今さらながらですが、人口減、超高齢化社会は、年少人口、生産年齢人口の減少から雇用や経済に影響を及ぼし、地域社会を疲弊させます。経済への影響から行政サービスの低下も懸念され、地域で職を失えば、都市部への人口移動、人口流出も生じます。限界地域(集落)、極点社会の発生です。
人口減少やその動向を踏まえつつ、下水道事業の持続可能性を確保する下水道計画の在り方、地域に応じた広域化みたいなことになるのでしょうか。どんなふうに関われるのかなあ。
蛇足になりますが、昭和59 年、JS最初の赤字決算、私は経理課(現在は無い部署)でした。平成24 年、2度目の赤字。私は、会計課でした。私が、本社の会計部門に異動になると、赤字になることが、2度続きました。あと何年JSにお世話になれるのかわかりませんが、2 度あることはなんとやら。この際、ぜひ、会計部署だけは、ご遠慮申し上げたいと(かなり本気で)思っております。

船でめぐる東京の水辺

50 周年記念事業等準備室 伊藤 正英

5年後のJS 日本下水道事業団設立50周年記念行事作成に向けて、本年4月より経営企画部総務課に勤務しております。
行事自体は5年先の事であり、今年は「10年のあゆみ」、「日本下水道事業団20年のあゆみ」、「日本下水道事業団30年のあゆみ」「季刊水すまし」等を参考にして、50周年事業に向けての項目の洗い出し、各種イベント、その他を思いつくままに50周年記念事業のメニュー表に載せる作業をしております。
その一環として参考になればと思い、他機関の事例収集作業も行っており、当初はJS と同じ旧公団関係(UR 等)に特化して収集しておりました。今はその枠を少し広げて「水」をテーマにしている団体(民間企業・個人活動含む)の活動内容を収集しております。その中で、お酢で有名なミツカンさんが主宰している「ミツカン水の文化センター」を見つけました。
活動内容としては、機関紙「水の文化」発行、「水の文化フォーラム」、また実地活動として専門家による解説をいただきながらの「街歩き」、「滝鑑賞」、「舟めぐり」等一般の読者を招待しての活動を行っております。
そのような中、先日(9月23日(土))に活動の一つである、「船でめぐる東京の水辺」を巡る企画に参加して来ました。
クルーズルートは、日本橋を起点として日本橋川~神田川~隅田川~小名木川~旧中川~横十間川エリアを巡る水辺散歩であります。
約3時間の行程で、一般社団法人 まちふねみらい塾 代表専務 高松巌さん、同法人代表専務 阿部彰さん、のご両名による解説を交えての水辺巡りでした。
普段では出来ない経験をする事が出来、充実した休暇を過ごせました。
戦後大都市においての生活・工場排水により河川が汚れ、江戸時代の落語にも登場していた江戸の風流な河川の面影が姿を消してしまった時代がありました。その後下水道の整備が進むに従い、江戸時代の頃とはいかないまでも、水質は大幅に改善された事により昨今の水辺巡りが可能になり今回のような「舟めぐり」に参加出来るようになったものと思います。
現に隅田川、小名木川や旧中川では、市民や学生によるモーターボート、ボート競技やカヤック競技の練習が見られました。
これからも自分が参加出来るイベント等があれば、顔をだして行きたいと思います。最後にミツカン水の文化センター、スタッフの皆様方、貴重な体験をする事が出来まして本当にありがとうございました。

日本橋(日本橋川1)
常盤橋(日本橋川2)
江戸城外堀石垣(日本橋川3)
国土交通省船着場(日本橋川4)
旧万世橋駅跡(神田川)
中央奥スカイツリー(隅田川1)
モーターボート、水上ボート(隅田川2)
東京都消防庁放水訓練(隅田川3)
ボート競技 練習(小名木川1)
扇橋閘門1(小名木川2)
扇橋閘門2(小名木川3)
カヤック競技 練習(旧中川)