地方共同法人 日本下水道事業団

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50周年記念行事等準備室通信 第6号

仕事への熱意、下水道への興味

東日本設計センター計画支援課 馬場 珠莉

皆さん、どれくらい熱意をもって仕事に取り組んでいますか? 長年、 JS において仕事に励んできた諸先輩方から見たら 、「 最近の若者は熱意がない 」 と感じることもあるかもしれません。また、 ワークライフバランスが重要視されてきてい る昨今、やる気だけあってよく考えもせずに非効率 な働き方をすることも、 仕事への 『 熱意がある 』 と は 言えないでしょう 。
独断と偏見にはなりますが、 仕事への『熱意をもつ 』 ためには 、 まず 仕事の内容 ・ やり方に『興味をもつ』こと が必要であると思います 。 ある 大先輩は 出張に行 く たびに、 「この辺 りは~処理場があって、昔、事業団で~設計をして 」なんて話 をきかせてくれました。 また、団体さんの名前を出すだけで 、 どんな下水道施設があ り、何が 特産で 、 観光名所でどういうところがあるかま で教えて下さ る方もいます。 このような先輩方の 影響をうけてなのか、 プライベート でも 旅行に行った際 に Google map で 近くの 処理場を探したり、マンホールチェックするようにしています 友人 には気味悪がられましたが ……)。今回は そんなプライベートで下水道に興味を持った例 を 紹介します。

<キャンドルナイトin 三河島>
東京都メトロ千代田線、町屋駅の近くに三河島水再生センターという処理場があります。ここは、国の指定重要文化財 、 「旧三河島汚水 処分場喞筒 場施設」があることで有名で、よく散歩がてら処理場の真ん中に架けられている歩道橋から処理場の中を眺め たり、水処理施設の上部空間を利用した荒川自然公園でのんびり していました 。

ある日、処理場の前を通りかかると、「キャンドルナイトin 三河島」 なるもの の ポスターが っこれは行くしかないと 12 月 末 の極寒の中 でかけ ました 。 下水道施設のイベント にそんなに人は集まらないだろう、と思っていましたが、 小 さいお子さん 含め 多く の方が 来場し て いて大盛況で した。
また、 ライトアップされたレンガ造りのポンプ室はとてもきれいでした 。

▶「キャンドルナイトin三河島」でアンケートに答えてもらったポストカード

しかしそれよりも、下水道の職員が風で 火が 消え る 大量のキャンドルに 点火 するた め、寒い中外で待機 するのに つい目がいっ てしまいました 。 都心の処理場はどこもそうですが、三河島 水再生センターも近隣に住宅があり、迷惑施設である下水処理場への住民からの視線は厳しいと思われます 。また、JSは基本的に土日が休みですが、自治体の職員 はこのように休日のイベントに駆り出されたりしますし、維持管理に関わる方は休日でも何か問題があれば泊まり込んで仕事をしたりしなければならないこともあると思います。
今回、イベントに参加したことでJS のお客様である 自治体さんの立場 、仕事の大変さを改めて考える機会になりました 。 (今年 の開催は 11 月初めだったよう です。 近くにお住まいの方は 来年ぜひ 行ってみてください。)

▶ 台湾の観光名所「九份」

9月に 1 週間ほど台湾旅行に行かせて頂き、台北~台南、台湾の最南端の墾丁と、台湾の北から南までいっきに観光してきました 。 移動には日本の新幹線技術をもとに作られた台湾高速鉄道も利用しましたが、日本の新幹線とほとんど同じ作りでとても便利でした。
そんな台湾の下水道事情(というかトイレ事情ですが)やはり中心都市である台北は特に日本と変わりなく、水洗化されていてとても使い勝手がよかったです。しかし、 ジブリアニメのモデルとして有名な九 份 という観光地 に行ってみると、そこは山あいの田舎ですが、下水道の整備があまりなされていないようで、水洗ではあるものの 紙が流せないという仕様でした。

台湾の下水道事業について調べてみたところ(インターネットの情報ですが 、 中心都市である台北市や都市開発が進んでいる地域では下水道普及率が高い ですし、下水処理技術も高度である ようで す。しかし 、その他の山間部などの田舎の方ではほとんど下水道が整備されていないようで した 。 自分自身があまり海外には行ったことがないうえ、普段の業務では海外の下水道事情を意識することがないため、海外の下水道事情についてこれまであまり関心を持っていませんでしたが、 あらためて JS の国際業務の意義について考える機会となりました。
以上のように 、『興味をもつ』ことで 、自分の気づかな い こと、知らないことについて考える機会が増え、今後の下水道事業に対する考えをより 広め ることができる と考えています 。
JSは 創立から 50 周年という節目を迎え ますが 、 下水道事業の経営は厳しくなり、 JS としても更に この先の 50 年 の 在り方 を考える必要があ る と思います。今後の JS について職員ひとりひとりが 50 年後に JS にいない方も含めて) 考えることで、今後の JS の生き残り方が変わるのではないでしょうか 。 若者は先輩方の知識を吸収 することに努め 、 諸 先輩方 に はこれまでの知識と経験を継承 して頂く ことで、両者が手を取り合って今後の JS の未来を作っていければと思います。

JSに入社してからこれまで

関東・北陸総合事務所PM室 山下喬子

私は、平成24 年 4 月に JS に入社しました。学生期間が人より少々長かったので(大学~大学院に計 9 年間通いました)遅めの社会人デビューでした。入社から 3 年間、技術戦略部水処理技術開発課(現在の技術開発企画課)に配属されました。初めのうちは、とにかく、周りの人が何を言っているのかさっぱり分からず、会話に付いていくのが辛かった記憶があります。そういえば、この年に作った名刺には「 JS40 周年」のようなことが書いてあったような気がします。
ようやく仕事にも慣れてきた平成26 年度後半にふらっと 2 ヶ月強の英会話研修に行った 後、平成 27 年度に国際戦略室へ異動しました。特定の専門性はそれほど求められない分、内外の調整ごとやちょっとした資料作りの機会には本当に恵まれたと思います。今思えば、この前の 3年間で吸収した色々なものを、アウトプットする期間だったかもしれません。そういえば、この時期は学生の説明会等に先輩職員として参加させていただくことも多く、自分の初心や業務のやりがいについて思いを馳せることも多かったです。
と、慣れも手伝って色々と調子に乗っていた平成29 年度末。関東・北陸総合事務所 PM 室への異動の内示が出ました。ここまでの 私の経歴を知る人には必ず訊かれます。「 PMR 希望したの?」…いやいや、絶対にありえません(笑)。平成 30 年 4 月、 PM 業務に取り組み始めたものの、全てがカルチャーショックで、それこそ入社 1 年目と同様に「周りの人が何を言っているのかわからない」「社内ルール(入札・契約、 PURE …)もさっぱりわからない」の連続で色々な方にご迷惑をおかけしています(すみません)。とはいえ、ペーパーゴールド免許だった私もちょくちょく運転するようになったりと、なんだかんだ言いながらも楽しんでやっております。
入社してから6 年半、このよ うにバタバタ過ごしながら自分も周りも少しずつ変化する中で、一貫して変わらず特別なのは同期の存在です。結婚を報告したら、なんと、とある週末にみんなが東京に集まってお祝いしてくれました(写真)。 JS が 50 周年を迎える 2022 年、我々の同期は 10 周年を迎えます。その頃、自分や同期達はどのような職員になっているでしょうか。私はその頃も変わらず仕事を楽しんでいたい…いられるかなぁ…。

個性豊かな同期たち

JS50周年記念メルマガに寄せて

関東・北陸総合事務所 施工管理課 櫻井 顔世

JS50 周年記念行事等準備室より「技術系女性職員」特集とのことで執筆依頼を頂きました。…が、特集に沿った良い内容が思いつかなかったので現在の業務について書かせて頂きたいと思います。
昨年度より関東・北陸総合事務所施工管理課に配属しており、工事の施工管理業務を行っております。専門性の高い業務に日々悪戦苦闘しておりますが、ベテラン職員の皆々様からの助けを大いに頂きながら、なんとか業務を遂行しております。
配属後は作業着の着 用から公用車の運転(ペーパードライバーでした)まで初めてづくしでしたが、一つずつのクリアを目指しつつ一人前になれるよう今後も精進していきたいと思います。

もうすこし作業着がしっくりくるようにがんばります。

私たちのお客様って?(カスタマーとクライアント)

50周年記念行事等準備室専門幹 中島彰男

私たちJS職員の使命は、お客様である地方自治体等の委託をうけ、質の高い信頼される下水道施設を提供することであるのは共通の認識であり、この 50 年この基本原則に沿って委託団体に成果品を引き渡してきたところです。
そのことを今頃提示すれば、「何とぼけたことを言ってるの!」と言われてしまいます。
ところで、設計等お客様から委託された成果品を提供(引き渡す)する際、お客様の信頼を得、満足していただくことを Customer Satisfaction -CS とし、業務を遂行する上での大きな方針として掲げられています。これまた当然のことであり、今では全員その認識をもって業務に当たっています。
ここで、一つ問題にしたいのは、 Customer Satisfaction の カスタマー についてです。JSにおいても、社会一般と同様に多くの方がお客様は カスタマー であるように理解していることと思います。これまた、「あった りまえでしょ!」と一喝されてしまいそうです。
しかし、果たしてそうでしょうか?
私たちは下水道技術の専門集団、計画・設計者集団として、プライドをもって仕事、業務を日々行っている訳ですが、 その私たちのお客様は カスタマー なのでしょうか?ここで、製造業(メーカー)や小売り業等のお客様は、 カスタマー ということは確かですが、設計事務所やコンサルタントではお客様のことを、なんと言っているのでしょうか?
すると、 クライアント と言われていることに、気づきます。
他には、医者にとってのお客様である患者を 医者は クライアント と呼びます。弁護士にとってのお客様である依頼人を弁護士は、 クライアント と呼びます。

手元のコンサイスで見てみると、
【 cli-ent 】 1. 弁護士の 依頼人; 医者の 患者 2.顧客 3.以下略
【 cus ・ tom ・ er 】 1.顧客、お得意 2.以下略
とあります。

つまり クライアントカスタマー は、「顧客」という意味合いは共通して有りますが、お客様に対して単に製品・物品を売るか、専門的技術・知識を売るか、の違いがあることがわかります。
私達JS職員は、下水道設計 を実施している過程において、お客様に対し一番適正であると思われ る内容を提示します。
お客様からの要望に対しては、まずは下水道技術者として、質の高い信頼、満足される成果品となるかどうか検討し、もし妥当ではない、と判断されたときは、その旨を誠実に伝える必要があります。
「この委託団体の要望は、変だとは思うけど、お客様は神様、絶対だもんなあ。」と思考停止状態になっていませんか?
私たちは下水道技術専門家であり、お客様は、我々に対し質の高い下水道施設を提供してもらうことを当然のこととして、依頼しています。
つまり私たちのお客様は カスタマー ではなく、 クライアント である、と思うべきだと考えます。
皆様ももう一度このことを考えてみませんか?
単なる言葉上のことではなく、業務に対する心構えに通じることと思います。

第 3 回 「江戸の割下水」

日本下水道文化研究会評議委員(元東京都下水道局職員) 栗田 彰

「 割下水わりげすい」というのは、道路の真ん中を掘り割って作られた排水溝です。江戸では「排水溝」のことも、溝を流れる水のことも下水と言っていました。まぎらわしいので、私は排水溝の方を「下水」と書き、流れる水の方は括弧で括らずに下水と書き分けることにしています。

◎本所割下水
「割下水」というと、本所(現・墨田区)にあった「南割下水」と「北割下水」が、よく知られています。
江戸時代前期の明暦の大火(1657 年)の後、江戸の町を再開発するとき、隅田川以東の本所地域を開発して、武家地や寺社地・町地を造成しました。本所は湿地でしたから 、排水を考えて縦横に堀を作りました。竪川・横川・十間川・南、北割下水などがそれです。
「南割下水」は、いまの江戸東京博物館の裏手から東へ延びる道路に作られていました。いまこの道路は《北斎通り》と言われていますが、以前は《南割下水通り》と言われていました。どうして、《南割下水通り》が《北斎通り》なのか? 葛飾北斎が《南割下水》の生まれだからです。北斎は蚊ではありませんから、下水から生まれたわけではありません。

江戸時代から昭和の始め頃まで、《南割下水》が俗称地名として通用していたのだそうです。
『御府内備考(幕府がまとめた江戸地誌)』の記録によりますと、「割下水」の幅は二間( 3.6m )ほどあったようです。

「南割下水」は江戸時代の「御竹藏(現・江戸東京博物館)」の裏手から「横川(現・大横川親水公園)」までと、その先、「横川」から「十間川(現・横十間川)までの間(この間を「 東ひがし中なか割わり下げ水すい」と称した)を流れていました。ちなみに「 東ひがし南みなみ割わり下げ水すい」というのは、ここから少し南へ離れた 「横川 」と「猿江御材木蔵」とを結んでいた「割下水」を称したそうです。現在の《新大橋通り》の「菊川橋」と「猿江恩賜公園」間の道路に「東南割下水」があったことになります。「東南割下水」の両岸は武家地と農地でした。

「御竹藏」の裏手から「横川(現・大横川親水公園)」までの間は、武家地と町地で、「横川」から「十間川(現・横十間川)までの間は、武家地と農地でした。
「北割下水」は、現在の《春日通り》に面して現存している「源光寺(墨田区本所二丁目)」の前辺りから「横川(現・大横川親水公園)」までと、その先、「横川」と「十間川(現・横十間川)」の間(この間を「 東ひがし北きた割わり下げ水すい」と称した)を流れていました。「源光寺」前から大横川」までの間は、武家地と町地ですが、「横川」と「十間川」との間は寺社地と農地が殆どで武家地は数個所だけでした。南・北割下水の、どちらにも、所々に橋は架けられていました。
また、『御府内備考』には、それぞれの合流点の近くには「 圦いり樋ひ番ばん屋や」が置かれていて、「割下水」の下水の排出先であ る横川や十間川の水の増減に応じて「割下水」からの排出量を「圦樋(水門)」で調節していた、という記録もあります。
「南・北割下水」の浚渫は決まった業者が請負っていたようです。どの位の頻度で浚渫していたのか、はっきりしたことはわかりませんが『壱ヶ年拾五遍の積もり』という記録があります。江戸時代の暦にはその年によりますが 閏うるう月づきというのがありましたから、一年が十二箇月の年と十三箇月の年がありました。ほぼ毎月一回ぐらい、それと雨の多い時期などに浚渫していたことになりましょうか。
「南・北割下水」とも、大正12 年( 1923 )の関東大震災後に埋め立てられたそうです。「南割下水」の跡は、公共下水道の「錦糸町幹線」と、雨水管の「東両国幹線」と「両国幹線」になっています。「北割下水」の跡は下水道幹線にはなっていないようです。
「本所割下水」につきましては、『御府内備考』や『江戸切絵図』などの史料で、今日でも ある程度のことはわかりますが、このあとで申し上げる「蔵前」と「永田町」の割下水につきましては、こういった史料が何もありません。『江戸名所図会』の挿絵だけで、私が勝手に「割下水」であろうとしているものです。

◎蔵前の割下水

右側の絵に「浄念寺(台東区蔵前四丁目に現存)」と、その門前町屋が描かれています。浄念寺の山門前に「下水橋」とその両側に少しだけ「下水」が描かれています。が、この絵でよく見ていただきたいのは、この「下水」ではなく、その前の道路の真ん中に描かれている「下水」です。

これは「割下水」ではないかと思います。
『江戸切絵図』にはこの「下水」は描かれていません。朝日新聞社が平成六年( 1994に発行した『復元・江戸情報地図』には、この水路が描かれていますが「水路」についての説明記事はありません。『御府内備考』には「浄念寺門前」町についての記録はあるのですが、「下水」についての記録はありません。
で、この『江戸名所図会』の挿絵だけから、私が勝手に「蔵前の割下水」だと思い込んでいるわけです。もう一度、絵をご覧ください。絵の右半分を切り取りました。

この「下水」が石組で出来ているのか「板組」なのか、或いは竹と木で編んだ「しがらみ」で出来ているのか、はっきりしませんが、道路の真ん中を掘り割って作られていますから、「割下水」には違いないとコジツケています。この「割下水」は「河岸通り」に出る手前の所で途切れています。その「割下水」が途切れた所に「桝」のようなものが描かれています。ここまで流れて来た「下水」は、この「桝」から先は、「河岸通り」の下を横切る下水が「 埋うめ下水げすい」で作られていて、流れて来た下水は橋の下あたりから新堀川に流れ込んでいたのではないかと思います。
挿絵の題になっている「新堀端」というのは現在の台東区にある《新堀通り》になります。江戸時代には「新堀川」という川がありました。根岸(現・台東区根岸五丁目)辺りから浅草の東本願寺の脇を流れて、蔵前で鳥越川と合流して隅田川に流れ出ていました。

◎永田町の割下水

絵の『 日吉ひよし山王さんおう神社じんじゃ』は千代田区永田町二丁目に現存している「 日枝ひえ神社 」です。今は赤坂見附と虎ノ門の間を走る《外堀通り》に面して大きな石の鳥居があって、こちらが神社の正面入口のようになっています。江戸時代はこの辺りは溜池でした。絵は《外堀通り》側の鳥居とは反対側から描かれています。この絵の山王神社が建っている山の向こう側に「溜池」がありました。
絵の真ん中の下の方に鳥居が描かれ、その前に石橋の架かっている「石組下水」が描かれています。
そのすぐ上に塀に囲われた「別当」の屋敷があり、「別当」の屋敷を囲む塀の下にも「下水」が描かれています。
「別当」の屋敷の向かい側(右側の絵の下部)には「神主」の屋敷が描かれています。この絵には描かれてはいませんが、「神主」の屋敷の周りにも、当然、「別当」の屋敷と同じように、「下水」があったことでしょう。

「下水」のある鳥居の前の道路は、現在で言えば、国会議事堂の裏から日枝神社に向かう「山王坂」を下った辺りの谷地になります。絵の右方向には大名屋敷があり台地になっていました(現在の衆・参両議院議長公邸付近)。
ここに描かれている「下水」は、台地にあった武家屋敷の庭の水や、台 地に降った雨を受け入れるための「下水」ではないかと思います。絵の左方向には「溜池」がありましたから、この「下水」の水は「溜池」に流れ出ていたものと思われます。

ところで、この「下水」ですが、道路の真ん中に造られています。普通、江戸の町では「下水」は道路の両側や、町地の裏側になる町境に造られていました。江戸で道路の真ん中に「下水」が造られていたのは、前に述べました「本所割下水」と「蔵前の割下水」と、この「永田町の割下水」の他には無いと思います。
ついでに申し上げますが、「永田町」という町名は江戸時代にはありませんでした。『千代田まち事典』によりますと、『江戸時代、このあたり一帯は武家地で、馬場のあった道筋に永田姓の旗本屋敷が並んでいたため「永田馬場」と呼ばれていたことが、この町名の由来です。江戸時代中ごろから現在の議事堂裏の通りは「永田町」と呼ばれ始めました』ということだそうです。それで、ここでは「永田町の割下水」としておきます。
以上、「江戸の割下水」について述べてきましたが、江戸の「下水」は、雨水の排除を中心に整備されていたものと思います。家庭からの雑排水は、現代とは違って水を大切に使っていましたから、 「下水」に流される量はごく少量だったでしょうし(例えば、米のとぎ汁は拭き掃除に使い、さらに残ったものは植木に 撒まいたり、雨水を溜めておいて防火用水や道路の 撒まき水に使った)、 屎し尿にょうが「下水」に流されることもありませんでした。また、現代のように洗剤のようなものも無かったので、下水とはいってもそれほど汚れてはいなかったようです。神戸大学におられた 神吉かんき先生のご研究によりますと、玉川上水の水は落差の関係から流末の水道井戸から水が溢れることを防ぐために、途中で余水を「下水」に吐き出すようになっていたそうです。これは「下水」に汚水が滞留するのを防ぐのに役立ったことでしょう。
江戸時代の初期には町中の「下水」をよく浚うようにという 町触まちぶれが頻繁に出されていましたが、江戸時代中期以降になるとそういった町触は極端に少なくなりました。町々で「下水」を管理することが定着したのであろうと思われます。 終