地方共同法人 日本下水道事業団

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50周年記念行事等準備室通信 第8号

施工監理の思い出

西日本設計センター企画調整課 中野 康雄

(1)大阪湾工事事務所
平成2年3月5日(かろうじて平成元年度です。)、大阪市の都合で変な時期にJS に異動となりました。(以下に記憶に残っていることを断片的に書かせていただきます。あしからず。)既に着任していらっしゃった大阪府からの出向職員の方に、大阪市内から大阪湾工事事務所に連れて行ってもらいました。最寄りの駅は南海本線「井原の里」駅でした。「泉佐野」駅の一つ手前です。事務所のすぐ前は大阪湾です。(小さい頃、この近くの貝塚市二色の浜海水浴場に来たことがありますが。)
いよいよここを拠点に施工監理の仕事をするんだという気分で、少し高揚感がありました。付近には大阪府の事業であります、「りんくう」関係他の事務所が並んでおりました。事務所付近では潮の香以上に食品プラント工場の油脂のにおいが気にかかっておりました。(ここの臨海部は食品コンビナートです。)
自宅から通勤時間が2時間弱の職場ですが、職場は温かい雰囲気でした。
(事業内容から大阪府及び堺市、岸和田市といった府下自治体からの出向者が大半でした。)
当時、関係書類はほぼ手書きで、現在の進んだOA 化された事務作業に比べ大層時間がかかって検査等の時期にはかなり残業したことを覚えております。(変更時の出来高計算書作成とかしんどかったです。かろうじてワープロは1台が後程、導入されました。)
(2)りんくう(臨空)の現場
ご承知のとおり、関西空港の対岸・りんくう(臨空)の場所は埋め立て地であります。当時は自動車が通れる道路はまだ整備されていませんでした。泉佐野市中央ポンプ場建設が大阪湾での主たるものでした。現場へは小型船舶を工事用に改造した船で関係者一同乗り込み、時に風の強い日は大きく揺られながら警戒船に見守られながら現場を往復していました。(体調が悪い時は大変しんどかったです。)
中央ポンプ場の施工監理では総合試運転に必要な用水の確保に現場代理人と現実的で安全な方法がないか苦慮していました。(当時水道施設が近辺まで整備されていませんでした。海上の給水船から注水することはリスクがありすぎ、しないほうがいいとか考えておりました。)工事も最終段階のころ、中央ポンプ場のすぐの場所で関空連絡橋の工事も進められており、最後の橋桁部材が架けられたのを目近に見ることができました。大きなサルベージ船で遠路はるばる(九州からと聞いていたかな?)運ばれてきたようです。めったに見られる光景ではないので、大変感激しました。
(3)松原市の現場
中央ポンプ場以外に大阪府松原市天美ポンプ場の建設も最後まで務めさせていただきました。大和川の南側での雨水対策として建設したものでありますが、河川に不法投棄された自転車を垂直にリフトできるという除塵機を設置したことや住宅地を抜けていき、当該ポンプ場の大和川への吐き口を見に行った記憶があります。私の実家は現場近くの東住吉区なので小さいころ大和川で遊んでおりましたが、大和川の南側での雨水被害のことは一切知りませんでした。このポンプ場の設置により、雨水対策ができることは地縁の関係(ご近所)で感慨深いものでした。(大阪市東住吉区内でもでも商店街にその名がついていて有名な駒川が氾濫してボートを漕いでいる人がいましたが。昭和30年代半ばかな?)
(4)大阪工事事務所
当時併任として大阪工事事務所の施工現場として吉野川流域の浄化センターの監督もしておりました。その当時大阪工事事務所では主として大阪市のなにわ大放水路工事が進行中でありました。事務所は長居公園の一角にあり所長および職員の方々も大阪市からの出向者で大阪湾とはまた違った雰囲気で仕事をさせていただきました。私は設備職ですが、吉野川流域の現場で記憶に残っておりますのは、浄化センターの放流先の吉野川の清流(世間では清流といえば高知県の四万十川、仁淀川のことをよく言いますが。)のことです。この吉野川は関西が誇る清流に間違いないと思います。この施設により河川の清流を守り、美観を損なうことを防ぐことになると思いつつ、工程会議、監督業務で現場への移動を繰り返しておりました。
(5)最後に
上記で述べましたように大阪湾の業務では、中央ポンプ場の施工監理をしていたのですが、先般、この中央ポンプ場の長寿命化工事(2台のポンプ設備工事)の検査をさせていただきました。なんか長年月の経過を感じるとともに言いようのない<因果>とか<巡り合わせ>を感じました。(稼働後、設備等に大きなトラブルはなかったかな、団体・市民の方々に迷惑がかからなかったかな?とか思いつつ。)
なお、施工監理では2度目の出向で平成17年度~19年度に近畿中国総合事務所の施工管理課で、大阪市舞洲スラッジセンター2 期工事、泉佐野市北ポンプ場、和歌山県上富田町の浄化センター建設工事等を担当させていただきました。
JS 業務は多岐にわたります。わかったような言い方で恐縮ですが、設計業務では中長期の事業計画の下、コスパを最大限実現するという目標の中で創意工夫を発揮する仕事であり、そこのところでやりがいがあると思います。
一方、施工監理では特に施設の新・増設では、何もなかった空間に次々物体が出現していくことが体感できますし、維持管理等を考慮し、現場における施工上の工夫を凝らすこともできます。こういった意味で施工監理の仕事も達成感を大いに体感できる仕事であると思います。

長寿命化工事の完成検査時写真(H31.3)

メルマガ投稿「JS 生活30 年!?」

秋田事務所 安田 美穂子

平成元年度採用者特集ということで、特に目立った活躍もしていないのに投稿するのも心苦しいのですが、せっかくの機会ですので、JS での生活30 年を主に業務以外の事を少し振り返ってみたいと思います。
秋田といえば「キリタンポ鍋」ということで、近年は回数こそ減りましたが、入社以来、来客があれば、安田製「キリタンポ鍋」を囲んで会食する機会も多く、コミュニケーションツールとして大活躍。楽しく皆様と懇親を深めることが出来たと自画自賛。約30 年間ともなれば、安田製キリタンポ鍋を食べた方々の延べ人数は、JS 内外合わせると結構な数になるかと思います。
さて、そのキリタンポ鍋、実は採用当時と現在とでは、明らかに味に差があると思われます。比内地鶏の鶏ガラスープを取るための気合と手間暇のかけ方が全然違っているからです。白状します、そうです、若いころは若干手を抜いておりました…。その頃に食べた方々で、この投稿を読んでいる方がどれくらいいらっしゃるか不明ですが、この場をお借りして「その節は、どうも申し訳ございませんでした。今度はぜひ、レベルアップしたキリタンポ鍋を食べに来て下さい。お待ち致しております。」
そして、今の安田を語る上で外せないのが、入社した頃にいた職員のオジサマ達。飲み会だ、2次会のスナックでカラオケだ、ゴルフだ、反省会は焼鳥屋で大ジョッキだ、山菜採りだ、温泉だ、なんだかんだ大変可愛がっていただき、一応外見は20代女子風にはしておりましたが、中身はすっかり「オジサン」に出来上がりました。今の安田があるのは、このオジサマ達のお陰、でございます。そのオジサマ達は今もそれぞれの職場で活躍中のご様子で、昨年開催したJS 秋田プチOB 会にも、有難いことにお忙しい中駆けつけて下さいました。今年もまた第2 弾を開催しようかと企んでおります。参加したいと思われる方がいらっしゃいましたら秋田事務所安田までご連絡下さい。歓迎致します。
その後、少し年月が経ち「平成13 年度JS 秋田工事事務所職員田舎者度ランキング」堂々の3位に輝く。その時の総務係長の独断と偏見により決定したランキングです。
安田としては、言葉は標準語を駆使して秋田弁を話さず、田舎者は封印していたのです。事実、委託団体の方からは「東京から来た人」と思われておりました。懇親会でそう言われたのです。
が、前述のとおりオジサマ達に鍛えられていた山菜採りや自然薯堀り、そして、その収穫した物の調理など、アウトドア的な場面で、つい実力を発揮してしまった結果でございます。そもそも生まれも育ちも「ナマハゲ」の里、自然豊かな男鹿半島の出身なのですから、田舎者は滲み出ていたのでしょう。まあ、事務所でいっしょに働いている人には隠しきれるものではなく、バレバレなのでございました。
ちなみに、個人名の発表は差し控えますが、1 位の方は自他ともに認める断トツの結果でございました。
そして現在、働き方改革を率先して取り入れることとし、とりあえずは、秋田の地酒レアものにハマり、今頃になって日本酒の本当の美味しさに気づいてしまいました。ついつい飲みすぎては反省をし、今度は飲みすぎないぞと、心に誓うこと、すでに何度目か。とは言いながら、憧れの吉田類さんか村崎ワカコのように「ひとり呑み」を今年こそは楽しもうと企んでいる今日この頃。当然、健康には留意しつつ、仕事にプライベートにと充実する気満々。秋田の美味しい地酒、ぜひ、ごいっしょにいかがでしょうか。入社した頃は、平成から新年号「令和」に渡って勤務できるとは想像もできませんでした。30 年本当に経ったのか?と年月の経過の速さに驚愕し、これまでお世話なった方々に心から感謝申し上げます。今後も人と人との繋がりを大切に、JS にとって、そして、いっしょに働くJS の皆様にとって、自分は何が出来るか、考え努力していきたいと存じます。今後ともよろしくお願いいたします。

令和を迎えて

研修センター管理課 松井田 浩之

みなさま 令和元年 おめでとうございます。
新しい時代への転機をむかえ、新時代とかリスタートといった言葉も見かけます。私も人生をリセットしたい。。。。。。
「令和」は万葉集からとったとか。その言葉の意味も巷間多くの解釈がなされているようです。
新元号の令和には、「すばらしく、なごやかな時代」という意味が込められているそうですが、チベットではReiwa は「希望」、台湾語読みでは「皆さん、こんにちわ」、スペイン語では巻き舌で「スタート」、ハワイ語で「花冠の時代」、ヘブライ語では「ふるまい」、ラテン語では「神からの贈り物」という意味になるそうです。
ちなみに、同じ和をもつ「昭和」は、国民の平和および世界各国の共存繁栄を願いが、そして「平成」は、国の内外、天地とも平和が達成される」という願いが込められていたそうです。
平成元年と令和元年、比較してみますと、平成元年は私が社会人として事業団に入社したときは、世の中的にはちょうど消費税が導入されたときで、今年奇しくもその消費税がまた大きく変わろうとしています。また、最高高値の株価に異変がおこり、その後にバブル崩壊となりましたが、会社にはいって何年間かは、バブルの影響や内需拡大政策もあって、まだまだ世の中は元気で、事業団の給与もアゲアゲだったと思います。仕事も大変でしたけど。深夜まで残業をして、帰りのタクシーをつかまえようとしても、なかなかつかまらないという日々が続いて、我々若手はいかにしてタクシーをつかまえるかということにその日一日の最後の力を振り絞っていました。
必死で罫紙に手書きか、順番待ちして部に1,2 台しかなかったワープロを使って議事録を作成した記憶がありますが、今は1 人1 台、モバイルのパソコンがあるし。土曜日も出勤日だったなぁ。当時を思えば働き方の改革は進んでいるのではないかと思います。
平成は平和に、世の中が平らかになりますようにという願いがあったかと思いますが、個人的な印象としては、全体(=総)よりも個の力が強くなったと感じます。平らかより凸凹が強くなった、かつ、凸と凹の差が大きくなった時代と思います。
事業団も、職員数が減ってきたということもあるかと思いますが、組織=ラインで仕事をするというよりも、個々の能力、資質に頼って仕事をするという雰囲気になったのではないでしょうか。以前は、まぁ今以上に残業も多かったのですが、皆で一緒に仕事をしているという雰囲気がありました。TV ドラマでよく聞く「チーム」ですね。今は、個人個人それぞれが、それぞれの業務に追われているという印象です。
平成になってから、事業団にとって嬉しかったこと、厳しい辛いこと、批判的なことがありましたが、個で対応させられたことは、その出来事の記憶やその対応のノウハウなどは、一部の当事者以外ではあっというまに薄れてしまい、全体である事業団にはあまり残っていません。私も、不祥事のあと整理のため異動した経験がありますが、そのときの苦労や今後の再発防止策について口を酸っぱくして言ってきたことも、徐々に緊迫感が無くなってしまったと思います。自然災害の記憶が徐々に薄れていくのと同じなのかもしれません。
事業団には業務を任せられる能力、資質をもった職員が多くいますので、皆がまさに令和(美しくハーモニーを奏でながら)業務を遂行すれば素晴らしい力となると思います。
ところで、私の出身都市はひらがな表記の都市なのですが、あえて漢字で書くとすれば「以和貴」だという説もあります。あの聖徳太子の有名な一文です。和をもって貴し、まさに令和の時代にふさわしい都市です。さすが我が出身市。
なので、令和の時代、私の人生のリセットがどうなるかは分かりませんが、私の時代なのではないかと思ったりしている今日この頃です。

(参考)

いわきの由来
718 年石城国が誕生し、その後1602 年磐城平藩が成立したのが「いわき」という地名の由来です。いわきの地名は「古事記」の中に「陸奥国石城(むつのくにいわき)」の名があり、当地方には古来より、石城、岩城、磐城の称が冠せられています。いずれも「いわき」と読みます。
聖徳太子十七条憲法にある「和を以って貴となす」(以和貴)の条を音読みすれば“いわき”となり、新市の一体的発展を願って名づけられました。
浜通り図書館から引用
http://www.thr.mlit.go.jp/iwaki/hama-lib/index.html

平成から令和へ思う 下水道事業団と私

中国・四国総合事務所 PM 室 大久保 秀人

平成から令和へ思う 下水道事業団と私

私は平成が始まった年の4 月に学卒で入社しました。
田舎育ちで下水道のある生活を身近に経験したことが少なかったので、日本下水道事業団(JS)という組織の果たしている役割もよくわからず、景気の良かった時代ですので、民間に就職する人が多く、同級生が県外に就職することが早々に決まる中で、自分自身も新たな出会いや都会の生活に憧れて・・という学生気分で入社式に参加した記憶があります。その時から30 年が経過し、自己成長しながら、仕事とプライべ-ト双方で貴重な時間を経験してきましたが、この度JS50 周年事業メルマガの投稿ということで、JS の役割や仕事の仕方も変わってきた中で、私自身の仕事と趣味の変遷について、御報告させていただきます。
平成元年~10 年
この頃、下水道事業は普及率に関する、世界水準に追いつくため、下水道予算も多く、JSは処理施設整備の先導役として、本社を頂点とした両支社、工事事務所のピラミッド型の組織体系で大中規模都市を中心に受託事業を行っていた時期でした。私は大阪支社や愛媛工事事務所で勤務しましたが、①仕事を早く覚えること。②委託団体の窓口担当者として、信頼してもらうこと。を心がけて先輩に教えてもらったり、参考図書を抱えての仕事でした。現場監督を担当した宇和島市浄化センタ-では体育館と合棟の処理施設であり、許認可手続きや大規模工事の施工管理を経験し、スキルの向上につながったと思っています。当時の趣味はジョギングで今治市の事務所が勤務先でしたが、昼休みに風光明媚な来島海峡の展望台まで往復50 分走を日課にし、体脂肪を10%以下まで減らすことに没頭していたことを思い出します。
平成11 年~20 年
この頃、普及促進は5 万人以下の市町村へ事業が移行するとともに、改築事業の増加等事業が多様化し、実施箇所は右肩上がりでしたが、景気落ち込みによる補助金削減や建設財源確保の困難から事業縮小の傾向も出始めた時でした。JS では内外部の様々なニーズを受けて職員のマンパワ-、スキルの有効活用や業務効率化を目的としたPM 制導入や総合事務所、県事務所を主体とし、間接業務や専門設計を行う本社・設計センタ-の横断型組織体系になりました。私は東西設計センタ-、四国総合事務所及び同地域事務所で勤務しましたが、組織変更に伴う仕事のやり方や新たな業務手法に対処するための関係部署との調整や受託業務の継続性を保つために奔走していた年代です。また、多くの災害が発生し、新潟中越沖地震では土木設計課担当で短期間の災害査定に向けた調査、資料作成、査定を経験し、通常業務以外の業務継続性の困難を痛感しましたが、多くの同僚の方に公私にわたって助けてもらって、何とか乗り切った思い出があります。趣味では友人の誘いで30 歳からMTB をはじめて、山岳コ-スの大会にも参加していました。ろくに練習をしなかったので、体力不足から参加中のチームでビリを争っていました。

来島海峡大橋
弓削大橋を自転車で走行中

平成21 年~30 年
この10 年は下水道だけに限らず大規模災害が毎年のように発生し、公私にわたって危機管理に関する日ごろからの備えを考えさせられた年月でした。また、下水道事業に関しては環境保全の目的だけでなく、付加価値を創出する貴重なエネルギ-源として交付金を活用した様々な取り組みが行われています。JS においても官業代行による下水道根幹的施設の建設に限らずに法令改正を受けて、災害復旧復興支援や国際協力、事業広域連携の参画等新たな業務が追加されましたが、限られた人数の中で受託業務を継続しながら取り組む手法について、ハ-ドソフト両面の働き方改革が行われています。私は四国及び九州総合事務に勤務し、北九州市固形燃料化事業のスキ-ム形成と契約支援のPPP・PFI 関連のマネジメントや少人数体制の施工管理業務を担当する中で、JS 職員に求められる技術の確保を行いながらのOJT、労務管理を行う難しさや委託団体の技術者不足に対して、政策形成に踏み込んだ相談の対応が増えてきており、50 歳になった今でも様々な機会を通じて自己研鑽の継続を今後も必要と考えています。また、20 周年を迎えた自転車については年相応から街乗り用の2 代目MTB に変更し、週末には30km超えを目標に自転車に乗っています。

私のマウンテンバイク

平成31 年~
4 月から中国・四国総合事務所に配置替えになりました。近中、四国より組織再編の職場のため、新しいメンバ-で業務を継続しながら組織内の仕事のやり方を決める必要があり、忙しい1 月でしたが、仕事と家庭のバランスを保ちながら下水道ソリュ-ションパ-トナ-の組織の一員として、令和元年以降の業務に望んでゆく所存です。

平成元年度に入社して

関東・北陸総合事務所 内笹井 徹

元号が平成から令和に変わり、JS50 周年を迎えるに当たりまして、これまで多くの部署を経験させていただきましたので自身の配属先を振り返ってみました。平成元年4月に入社してから今年で30 年目になります。

〇平成元年~業務部業務課、平成4年~東京支社工事課
協定担当。数の多さに驚きました。理事長までの決裁に毎度緊張(今でも)。
〇平成6年~建設省都市局都市総務課
初めての出向。予算係で都市特会、行政部費(JS 補助金)、都市災害など担当。
国のために霞が関の方々がどれほど仕事しているか身をもってわかりました。感謝。
〇平成8年~東京支社会計課、平成10年~大阪支社鳥取工事事務所
初めての転勤。当時まだプレハブの事務所に数か月勤務。その後、駅前に常設化。
鳥取砂丘へは何度も行きました。松葉ガニも美味しい。
〇平成12年~高崎市下水道局
人事交流で高崎市役所へ。庶務、下水道協会など担当。地元のための仕事であり、身近に成果を見ることができました。
〇平成14年~経理部経理課、平成16年~経営企画部経理資金課
経理課では建設業務勘定の予算を、経理資金課では協定に基づく全国の資金請求を担当。入金がなければ支払いもできません。資金請求は最優先!
〇平成18年~関東・北陸総合事務所プロジェクトマネジメント室
長野県担当。PURE の操作に四苦八苦しました。また、厳しい内容もありましたが、委託団体の声を直に聞くことができ、良い経験ができました。
〇平成21年~東北総合事務所お客様サービス課
忘れもしません、3.11。物資の供給、応援いただきありがとうございました。
〇平成23年~経営企画部総務課、平成24年~関東・北陸総合事務所お客様サービス課関東・北陸総合事務所2度目の勤務です。
〇平成25年~経営企画部法務・コンプライアンス課
課として3年目。コンプライアンスの推進、契約制度、消費税率改正対応などいろいろありました。
〇平成27年~研修センター
初めての戸田勤務。毎年千人以上の研修生が訪れます。研修が終わるころには研修生同士の輪ができています。見ていて新鮮です。先生方お疲れ様です。
技術検定担当。インターネット申し込み導入。主要都市の試験会場確保が課題です。
〇平成29年~関東・北陸総合事務所
3度目の関東・北陸総合事務所勤務です。主に東日本の工事等契約を担当。不調・不落の多さに驚きました。適切な執行管理に努めます。
入社してから30 年。配属先を振り返ってみましたが、今は無い組織名称がいくつか出てきました。JS を取り巻く環境の変化に応じて、仕事の考え方や手法とともに変わっていったものでありますが、自分自身の仕事に取り組む姿勢は今も昔も変わっていないのではないかと思っています。これは、これまで多くの部署でお世話になりました諸先輩方をはじめ多くの皆様のおかげであると感謝しております。
JS50 周年まであと3年。私も現役で勤めていられる年齢ですが、その次の50 周年に向けてJS の一員として皆さんと一緒に歩んでいきたいと思います。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

50年を超える礎を築こう!

技術戦略部 橋本 敏一

10 連休から1 ヶ月少し経ち、日々の業務や生活の中で、新元号の「令和」を使うことにようやく慣れてきました。
今から30 年前、63 年にわたり続いた昭和から平成に変わり、約3 ヶ月経った平成元年4月1 日、私を含む7 名の平成時代最初の職員がJS(当時はまだJS という略称はなく、略す時には下団でしたが)に入社しました。そして、今日まで一人も欠けずに、みんなで令和の時代を迎えました。
先日、十数年ぶりに見つけ出した入社式の記念写真を見ると(中央列の右から3 人目が筆者)、なんとも線が細く、こんなので大丈夫なのだろうかいった風で、30 年前の姿から今の自分(本人の意識はともかく、周囲からはきっと態度が大きいと思われているかも知れない)はまるで想像できず、時の長さとその間の移り変わり(成長?)をひしひしと感じてしまいました。

さて、JS は、昭和47 年11 月の下水道事業センター発足から数えて、今年で設立47 年、あと3 年で設立50 周年を迎えるわけですが、民間企業では、企業30 年説などとも言われ、大企業でも寿命は30 年程度であると言われます。
JS では、奇しくも設立30 周年の翌年、平成15 年10 月に地方共同法人に移行し、その後、今日に至っており、民間企業とは単純に比較はできませんが、30 年の壁を越え、50 年に向け、着実に前進していると言えるでしょう。
しかし、この事実は、単純に過去と同じことをし続けてきたのではなく、地方共同法人への移行を契機に、それより以前にも増して、地方公共団体のニーズに応えるべくなされた、組織体制や事業運営の改革や、職員一人一人の不断の取り組みによって成し遂げられたものです。
民間企業では、「顧客満足を意識しなければ、いつか倒産する」と言われます。JS が50年の壁を越え、さらに継続し、発展していくためには、ソリューションパートナーとして、また、ナショナルセンターとして、地方公共団体のニーズを常に的確に把握し、これに応えて続けていくことが必要です。
私もほんの2 週間前、55 歳となり、30 代、40 代の頃のような無茶は、すっかりできなくなってしまいました。設立50 周年、そしてさらにその先に向けて、これからも微力でもお役に立っていくためには、しっかり健康状態を点検し、悪いところがあれば、早いうちに治すことが必要となるでしょう。
組織も人も同じです。JS がこれから先も、ソリューションパートナーとして、また、ナショナルセンターとして、地方公共団体のニーズに応え、継続・発展していくためには、設立50 周年に向けた今が、組織や事業を総点検し、変えるべきところは変えていく、そのような時機にあるのだと思います。
50 年を超え、さらに継続・発展する礎を、今皆で考え、築いていきましょう!