地方共同法人 日本下水道事業団

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50周年記念行事等準備室通信 第5号

勤続20年を迎えて

技術戦略部 技術開発企画課 糸川浩紀

私は平成 11 年 3 月に JS に入社した水質職です。気が付けば 20 年目…、早いものです。入社以来、 1 年間の海外派遣(平成 17 18 年;アーヘン工科大学)と 2 年間の計画支援課勤務(平成 22 23 年度)を除き、一貫して技術開発部署で試験研究 技術開発関連業務に従事してきました。部署名で言うと、技術開発部⇒技術戦略部水処理技術開発課⇒同・技術開発企画課という変遷になりますが、名前が変っているだけで、水処理関連の技術開発、という点では同等です。このように、私は、 JS の中でも技術開発しか居場所が無い(と勝手に考えている)、 JS の中でも特殊な立ち位置にある(と勝手に考えている)職員です。何故なら、私が入社した際の募集に博士号取得 という要件 が入っていたからです(ちなみ に私は中途採用で、前職は大学教員です)。これがいつまで効力を持つのか不明確ですが、「他部署では使い物にならない」をキーワードに、技術開発に居座り続けています。
入社以来、超高度処理、ステップ流入式多段硝化脱窒法、担体添加活性汚泥法、汚泥減量化・削減技術、活性汚泥モデル、膜分離活性汚泥法( MBR )、アナモックスプロセス、送風量制御等、様々な水処理技術の開発・実証・実用化に携わってきました。どれも思い出深いですが、特に 自身が技術評価まで担当したステップ流入式多段硝化脱窒法、活性汚泥モデル、 MBR 、アナモック スプロセスについては、いずれも強い思い入れがあります。

JS は、優れた基準類を整備している点が強みと言えますが、基準に準拠することは、これに盲目的になってしまうリスクを常に孕みます。私の守備範囲である水処理技術で言えば、各種水処理プロセスやその設計諸元等に係る理論的学問的背景がブラックボックスになりがちで、これが忘れ去られないよう補完することが、私の一つの役割だと考えています。これは、 JS 内だけでなく、日本の下水道界全体に言える話であり、各種研究発表会や委員会等の場で、上記の観点に基づき積極的に発言 するように努めています。
最近は歳を感じることが多いため、同様の素質と志向を有する若い技術者が、少数でよいので、 JS 内に出てくる(または入ってくる)ことを願っています。

江戸の水辺街歩き(歴史散歩)

50周年記念行事等準備室 伊藤正英

昨年9 月に「ミツカン水の文化センター」主催で、日本橋から船に乗って、東京湾沿いの水路を散歩しました。
今回(6月)は、水路に沿っての街歩きをしてきました。
前回と同じく、「ミツカン水の文化センター」主催の街歩きです。
日本橋を起点として、隅田川河口までを約3時間かけて巡って来ました。
起点の「日本橋」は、江戸時代には高札場がありました。また橋の南詰の東側には罪人の晒場がありました。(早朝の小伝馬町の牢を出されて晒場につながれ、暮れの七つ時(16時)に牢に戻されたそうです。
因みに、現在の日本橋は明治44年(1911年)竣工したものです。
次に「日本橋魚市場跡」を巡りました。
江戸の魚河岸の発祥の地でして、徳川家康の関東入国に従ってやって来た摂津国西成郡佃(つくだ)村の森孫右衛門ら漁民30人が入植し、将軍御膳魚献上に伴って余った魚を日本橋小田原町で販売したことが「魚河岸」の始まりとされてお ります(所説あるかもしれませんが)。
次に「三浦按針屋敷跡」を巡りましたが、当然何もありません(碑があるだけ)。三浦按針とは、ウイリアム・アダムスと言うイギリス人で慶長5年(1600年)4月19日、オランダ船リーフデ号が豊後に漂流しまして、家康が乗組員であった航海士ウイリアムアダムスとオランダ人船員ヤン・ヨーステンを江戸に招いて、アダムスは家康の外交顧問・通訳に抜擢され、平戸にイギリス商館を誘致するなど活躍しました。
ヤンヨーステンの屋敷があった関係で東京駅の八重洲の名前がついています。「ヤンヨーステン」→ 「耶楊子」→「八代洲」→「八重洲」となったらしいです。
次に、「一石橋」、「金座跡」と巡りまして、金座跡は現在、日本銀行本店本館が建っております。巡った「駿河町」には三越や三井本館が建っております。因みに三越は、延宝元年(1673年)伊勢国松阪出身の三井八郎右衛門高利が本町一丁目に開業したところから始まります。次に「堀留公園」と歩いていき、元は堀留川が流れていて全国から各種商品が集まる一大物流問屋がありました。現在は川は埋められております(一部が公園になっている)。

「末広河岸」、「鎧河岸跡」、「霊巌橋」、「河村瑞賢屋敷跡」と巡りました。河村瑞賢(1617年~1699年)とは、伊勢国出身で、江戸に出て材木の買い占めで豪商となり、東回り・西回り航路を開発、日本列島の海運物流ネットワークを完成させました。晩年には旗本に取り立てられました。
「新川大神宮」、「隅田川河口」でゴールとなりました。個人ではなかなか周る事の無い、散歩でしたので、興味深く歩くことができました。