地方共同法人 日本下水道事業団

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50周年記念行事等準備室通信 第4号

入社10 年をふり返り

関東北陸総合事務所 プロジェクトマネジメント室 井上 賀雅

JS は創立50周年という大きな節目を迎えようとしております。私も入社10年目という節目を迎えましたので、改めてこの10年間を仕事と当時の生活の面でふり返ってみたいと思います。

○大阪での生活(入社1~3年目)
仕事
私が最初に配属された部署は、西日本設計センターの土木設計課でした。配属されたばかりの頃は何をしてよいのか分からず、頼まれる仕事も設計書のコピーや書庫の整理といったものでした。
半年が過ぎた頃から徐々に担当を割り当てていただけましたが、自分で積算した設計書が審査で毎回修正事項を記した付箋だらけになって返って来るので、自分はこの仕事を続けていけるのだろうかと不安に思ったものです。
生活
この頃、たこ焼きにハマり、近所のたこ焼き屋さんが格安な(しかも時折サービスで増量してくれる)ことから、夕飯はたこ焼きだけという生活を送っておりました。今思えばかなり偏った食生活だったと思います。

○兵庫での生活(入社4年目)
仕事
設計課で仕事を覚えるなかで、実際どのように施設を作り上げていくのかに興味を引かれ、異動希望は施工管理課を第1 としました。その結果、兵庫事務所に配属され、兵庫県垂水区に移り住みました。
兵庫事務所では会計検査対応で苦労しました。JS が施工した管廊のクラックにひび割れが多いとの指摘でした。
クラックが多いと言われても何本なら良くて何本ならダメなのか?その基準がよく分からなくて対応に困りました。最終的にはコンクリート診断士に評価をお願いしたのですが、その評価をもってしてもなかなか納得してもらえず苦労しました。
生活
海に近く、魚介類がとても美味しかったので、この時が一番魚を食べていたと思います。そのうち、自分で魚を釣り、料理をすれば食費が浮く!と本気で考えて、釣具屋でルアーと釣竿を購入し、兵庫の釣りスポットを回っていました。しかし、独学だったのがまずいのか運がないのか魚が全く釣れず、釣りは長続きしませんでした。

○千葉での生活(入社5 年目~)
仕事
まだ兵庫事務所1 年目だからと油断し、有給を取って家族と出かけた先で当時の兵庫事務所長から異動の内示をもらいました。しかも国土交通省への出向とのことで、何がなんだか理解が追い付かず、暗い気分になったのを覚えています。
国土交通省での業務は思っていたよりも過酷(部屋が狭く、風が通らないため蒸し暑く、夏場は窓から大量の虫が入ってくるなど職場の環境が悪かった)でしたが、下水道法改正のお手伝いなどをさせていただき、貴重な経験を積ませていただきました。
その後、東日本設計センターの計画支援課に配属され、入社8 年目以降は関東北陸総合事務所のプロジェクトマネジメント室で業務を行わせていただいております。
生活
子供が生まれてからは子供中心の生活となり、一人でふらふら出かけることもほとんど無くなりました。
健康診断でいろいろとひっかかるので、子供と遊びながら減量を行おうと模索しておりますが、なかなか成果があがりません。

○今後の生活
10 年、20 年、30 年後も地方公共団体の力になれる組織であるために、JS 職員として、今後の発展に貢献出来るよう努力していきたいと思います。

日本下水道事業団 ~世紀を越えて~

東北総合事務所PM室 小松 海里

今回は平成21 年入団の私たちが採用10 年目ということでご指名いただきました。いままでの回から急に年次が下がって恐れ多いのですが、JS50 周年に向けて投稿させていただきます。
日本下水道事業団の一員となり、もう10 年もたってしまうのかというのが実感で、この間に自分が何をして、何ができるようになったのか考えても未熟さに恥じ入るのが正直なところです。いろいろなことを経験させていただくとともに、内外たくさんの方々との出会いがありました。実務上は至らないことが多く、上司、先輩方、同僚、後輩、時には外部の方たちにも助けていただき、なんとか仕事を続けているのが現状です。(上司の金子所長を見習って職務ごとの思い出と体重変化を書こうと思いましたが、±3kg くらいと変り映えがしないのでやめました。毛髪量は劇的に減っていますが……)

○1、2年目:東日本設計センター土木設計課
センターの歓迎会で「どこからですか?」の質問に「千葉からです(出身)」と応えたところ、千葉市からの出向(代理級)と間違われました。 土木設計課出社初日、S代理から「事業団は椅子に座った瞬間から1人前だから!」、チューターK師匠から「なんでも好きなようにやって良いから!」とのお言葉に恐れおののきました(その結果がいまのコレです)。それを見て非常に心配してくださった、課の過半数を占めた東京都、名古屋市や静岡市の出向の皆様に大変お世話になり、今でも仲良くさせていただいています。

課内旅行 熱海温泉 MOA 美術館前

○3、4年目:計画課など(併任:情報システム室、広報室、震災復旧支援室、東・計画支援課)
東日本大震災直後の計画課で、東北総合から情報をもらう(相当なお邪魔だったと思われます)、国交省下水道部に出入りして情報交換(節電のため省内は暗く、引っ越し前の下水道部は真夏でもエアコンを止めて扇風機の回る、昭和のようなイメージでした)、社内に情報を流す(結構難しい)、急に出てくる放射能汚泥やFITの話題、合間を見て通常業務、復旧支援室1か月弱、玉突人事で計画支援課4か月などてんやわんやの2年間でした。

震災復旧支援室 平成23 年10 月頃

○5年目:兵庫事務所
初めての関東以外での生活。プロパー1人の兵庫事務所。JS的ではない知識や技術をいろいろ教えていただき、おもしろい1年でした。N宮市K子園浜Tに通いつめました。完成検査を一度も経験せず。
もう1,2年いたかったです。瀬戸内海と明石海峡大橋を眺める生活は結構魅力的でした。
○6,7年目:福井市下水道部下水管路課雨水対策室派遣
初めての中核都市級での生活。雨水対策に打ち込んだ2 年間。別の視点からJSを見られたのも良い経験です。雨や雪で盆暮れ正月も仕事になる、市民の方から名指しで電話がかかってくる等々、公務員の大変さを知りました。友達がたくさんできました。
○8~10年目:東北総合事務所プロジェクトマネジメント室
PM室勤務は15年目くらいからかなと油断していました……。
この10 年で印象深いのはやはり東日本大震災です。1 年目、土木設計課で初めて発注したのが宮城県W谷町の建設工事でした。2 年目、このW谷浄化センターにいるときに震災(震度6 強)を経験しました。レベル2 耐震がほんとなんだというのを身をもって知るとともに、かなりの軟弱地盤ゆえに目に見えて沈下していく地面や自家発が稼働して見ることができたテレビに映しだされるリアルタイムの津波映像に愕然としました。あの時の恐怖やインフラ整備に携わる人間でありながら何もできない自分の非力さを痛感したことが今でも思い出されます。しばらく間はあいてしまいましたが、今は東北に勤務し、微力ながら復旧復興のお手伝いをさせていただいております。

50 周年、半世紀と書くと歴史の重みを感じてしまいます。私たちの世代は(JSの活躍もあり)公害をあまり経験していませんが、小学生くらいから環境問題やエコといった言葉に良くも悪くも馴染んできました。先輩の皆様方が築かれたJS半世紀の歴史もこれらの流れと深い関わりを持つと思われます。
いまは汚水処理人口普及率90%超、人口減少社会等の背景はありつつも、震災復旧復興はまだ行っていますし、今後の災害対策、雨対策も必要で、マネジメント・維持管理に力を傾注しなければなりません。さらに平成27 年の団法改正に伴う役割の拡充により、JSへの期待は増しています。
これを書いている間にも国会では「海外社会資本事業への我が国事業者の参入の促進に関する法律案」が審議されているそうです。いままでもJSは同じような海外業務に携わってきたとは思いますが、今後どのようになるのでしょうか。国内でもやらなければならないことは山ほどあるのに、海外も本格化!? という気がしないでもありません。しかし、法案中で有名どころの独法等と名を連ねる「日本下水道事業団」の文字になにやら誇らしさを感じるとともに、ワクワクするのも否めません。(技術開発メルマガに細川部長が書かれていた略語ではありませんが、JSがWSとか……?)
次なる半世紀、JSの発展する先がどこにあるのかよくわかりませんが、その必要とされる機能は大きく変わることはないでしょうし、我々世代もその根幹とならなければならいことは確かだと思います。そのために実力、見識、交流(人間力!)等々を地道に鍛えていかなければなりません。今後自分がいくつまで働ける(働かされる?)かわかりませんし、生きてJS100 周年に立ち会えるかもわかりませんが、今後のJSの発展に微力ながらも参画させていただきたいと思う次第でございます。

これを書いている最中、ちょうど私は三分の一世紀歳を終えるところでした(採用されたときは四半世紀歳になる年)。来年からは人間ドックを受ける年になり、自分の “アセットマネジメント”も意識しなければならないのかもしれません。同期では(一度も)結婚していない最後の一人になってしまいました。まずはここからどうにかしなければ!

「JS入社10年目・・・早い!!」

近畿地方整備局建政部都市整備課(出向中) 辻 幸志

平成21 年4 月にJS に入社して、あっという間に時が経ち、この4 月で10 年目に突入しました。これを機会に、これまでのJS 生活を振り返り、自問自答してみたいと思います。
とその前に、私のこれまでの所属部署の紹介をしておきます。
◎平成21~23 年度:技術開発部技術開発課(平成23 年度は技術戦略部水処理技術開発課)
◎平成24~26 年度:国際室
◎平成27~29 年度:東日本設計センター土木設計課
◎平成30 年度~ :出向(近畿地方整備局建政部都市整備課)

【JS に入社してから最も印象に残っていることは?】
・・・・・なかなか思い浮かびませんでした。もちろん、楽しいことや苦しいことなど様々な経験をさせていただきましたが、最も印象に残っていることと言われると、絞りきれませんでした。その理由を考えてみると、自分の知らない新鮮で刺激的な事が多すぎたのではないかと思います。
入社した当時は全てが新鮮で、初めて異動をした国際室では、国際室の立ち上げ当初だったこともあり、業務の開拓や知識の向上に奮闘しておりました。その後、土木設計課では・・・(書ききれません)本当に多くのことを学びました。現在は出向中で、これまでとは別世界に戸惑いながらも楽しんでいます(下水分野だけではなく、公園関係の“みどりの愛護”というイベントのロジ作成を支援し、間近で皇太子同妃両殿下を拝見することができました)。

【JS に入社して良かったことは?】
多くの専門家と出会えたことです。JS の技術職の皆さんからは、多くの経験と実績に裏付けられた知識や仕事のやり方などを学びました。また、国際室に所属しているときは、湯島ビルの7階の経営企画部の真ん中に居座り、ある意味で技術職よりも個性に富んだ事務職の皆さんに囲まれて、貴重な体験ができました。国交省・地方公共団体の方々、コンサルや施工業者の方々の立場における立ち振る舞いなどを通じて、様々な視点や考え方があることを実感しました。
この春から出向となり、現在の職場では、下水の専門家は私を含むJS からの出向者2 名のみです。課内には公園・古都、街路、市街地、都市再生と様々な分野の専門家がいます。会話を聞いていても、これまでに聞いたこともない言葉が飛び交っております。また、色々なことが学べそうです。
(もちろん、すばらしい同期と出会えたことは当然です!!)

【JS に入社してから失敗したこと】
多くの失敗を繰り返し、先輩方・後輩にも多大なご迷惑をかけてきました。この場を借りて、お詫びいたします。
失敗・・・失態と言ったほうが良いかと思いますが、国際会議の発表でドイツに行った際に、大事件が起こりました。会場でペンを落としてしまい、拾おうとした瞬間、ズボンのお尻の部分が“ビリ”っと破けてしまいました。ドイツは冬でしたのでコートを羽織、直ぐにホテルに戻りましたが、発表が翌日に控えており、慌てて知らない街を歩き回りましたが営業中の洋服屋さんは見当たりませんでした。諦めかけた時に、織物屋さん(カーテンを売っていた記憶があります。)を見つけたので入ると、お婆ちゃんが1 人ミシンの前に座っていました。お婆ちゃんはドイツ語しか話せなかったのですが、身振り手振りでズボンを縫ってほしいことが伝わり、その場でズボンを縫ってもらいました。ホッとして、会計を済ませようと財布を出すと、首を横に振って「I’m happy」と初めて英語で話しかけられ、とても暖かい笑顔でした。翌日、無事に発表を終えられたのはお婆ちゃんのおかげでした。
たった3 問の自問自答となってしまいましたが、これら以外にも多くのことをJS に入社してから経験し、多くの人達と知り合いになることができました。この4月からJS に入社して初めて関西で勤務することとなり、さらには出向ですので、周りは知らない人達ばかりでとても不安でした。しかし、偶然にも、技術開発部(現在の技術戦略部)と国際室に所属していた際に、一緒に仕事をさせていただいた国交省の方々が本省の窓口であったり、地方公共団体の方々が直接の担当者であったりと世の中は狭い(下水道分野が狭い?)と感じるとともに、とても安心できましたし、再び一緒に仕事ができる喜びを感じております。
最後になりますが、私がJS に入社してからの約9 年間だけでも、下水道事情は大きく変化し、これに伴い地方公共団体のニーズも変わっていったと感じております。今後、このような変化にJS が応えていくためには、約50 年間のJS の実績や経験が必要となる場面も多くあるかと思います。先輩方の知識や経験をご教授いただきながら、50 周年を迎えるJS でこれからもより一層業務に邁進していきたいと思っておりますので、皆様、今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。

勤続10年総括

西日本設計センター計画支援課 杉山 幸一

平成20年度に中途採用でJS のお仕事をさせていただくことになってから、早10年の月日が流れました。この10年を振り返ると色んなことがありました。それを今から少しだけお話しさせていただきます。
長男(5歳)は現在「仮面ライダービルド」にぞっこんで、私もお付き合いで一緒に視聴させていただいております。その中で驚いたのが、主人公以外にも敵味方関係なくたくさんの仮面ライダーが登場することでした。どれが味方で誰が敵なのか、にわかの私には非常に難問であり、またストーリーをより難解にさせておりました。
そして、主人公も状況に応じてその姿(フォーム)をコロコロ変えます。仮面ライダービルドは変身ベルトに「フルボトル」なるオプションツールを取り付けることで、状況に応じて姿形を変えて戦うのです。しかもこのフルボトル、アホみたいに種類がある。
私の頃の仮面ライダー(BLACK・RX)と言えば、シャドームーンを除けば基本主人公の一人だけでした。また、主人公が他のフォームへと変わる時も怒りや悲しみといったものをきっかけとするため、感情移入も半端なく、別の姿へ変わること自体が非常に貴重(ごちそう)だったものです。
しかし、今の仮面ライダーは悪く言ってしまえば、おじさんには敵味方の区別がつかないくらいライダーだらけ、せっかく好きだった主人公のフォームもフルボトル交換ですぐに別の姿に変わってしまい、愛着形成が非常に困難となっております。
今と昔で何が違うのか。
そこには「画一的な価値観」が揺らぎ、「相対的な価値観」へとシフトしたことが起因しているのではないかと考察してみました。おじさん視点ではなく、子供たちの視点から見た場合、主人公を含め多種多様なキャラがいることは、自分の好きなキャラを「選択して楽しめる」ことにつながっています。
主人公自体も様々なフォームに変化することで、その中から自分の好みの主人公を見つけることができるのです(常に興味を惹かせ続け、飽きさせないテクニックでもある)。
これは、AKB48 等の多種多様にアイドルが存在するグループが爆発的な人気となったこととも共通するように思えます。ファンは、たくさんいるアイドルの中から「自分好みの一人」を見つけ出せるという「選択制」を付与されることになりました。加えて、そこに「アイドルを育てる」という育成要素も加わったことがブレイクへとつながったと考えられます。
個人主義化に伴う価値観の多様化が進む現代日本において、「みんなが愛する一人のアイドル」はもはや誕生しにくい時代であり、昨今ヒットにつなげる最大要素になるものとは、「画一的な象徴」ではなく「相対的な象徴」を付与することなのだ、とひとつの結論にいたったわけです。
これは、ひるがえすと下水道事業にも当てはめることができるのではないでしょうか。
下水道事業の経営については、その費用を下水道使用料と一般会計からの繰入金で賄うこととされていますが、接続率の低迷や経営実態に準じた使用料設定がなされていないことでその収入が十分ではありません。
これに高齢化、人口減少等が加わることで、下水道経営がますます悪くなることは容易に想像ができます。安定した下水道経営の実現を図り、持続的な下水道サービスを提供していくためには、経営基盤の強化への取り組みは必須と言えます。
また、下水道施設の老朽化や職員の減少など様々な問題解決に向けて、多様な観点からアプローチすることが求められています。
下水道事業の転換期を迎え、いまJS ができることはなにか。
それは、画一的な価値観ではなく、相対的な価値観をもって下水道事業の一助となるものを模索し具現化していくことではないのかっ!と、長女(3歳)と「HUG っと!プリキュア」を観ながらふと感じた次第です。

「下水道の世界」

西日本設計センター機械設計課 服部 智

先日娘に「パパは何の仕事をしているの?」と聞かれました。
「下水道のお仕事」と答えましたが、あまりピンと来ない様子。
「トイレとかお風呂とか、使った水を綺麗にする為の建物を作っている」と付け加えると、「どうやって綺麗にしているの?」と聞かれ、
「機械で取る部分もあるけど、水の中の小さい生き物が食べてくれる」と説明しました。子供にすれば、「トイレでしたものを食べる小さい生き物って何?なんでそんなものを食べるんだ?」といった感じです。
「会社に行って何しているの?」との質問。
「設計のお仕事」と答えましたが、あまりピンと来ない様子。
「建物を作る為の絵を描いている」と答えると、「へー」と少し興味をなくした様子。子供にすればあまり興味のある分野ではないでしょうし、朝から晩まで何をそんなにやっているんだろうと思っているはずです。
娘は小学校に入ったところですが、確かにその年頃に私も下水道のことなど知りませんでした。
下水が生物処理を行っていると知ったのは、いつなのか?
小学校なのか、中学校なのか、もっと後なのかそれすら覚えていません。
身近にあるけど、意識せず、ある種それだけ遠い存在だったのだと思います。
先日『マツコの知らない世界』という番組で、「下水道の世界」というテーマで放送されていました。
下水道カメラマンという方が出演されており、
「下水道は一生見ないで終わる人も多い。それを公けに出すことが楽しみ」とおしゃっていました。
確かに一歩違えば、下水道とも関わっていなかったかもしれないですし、関わりがなければ一生見ない施設です。
ちなみにその回一緒にやっていたのは、「しゅうまいの世界」でした。
食べ物でいうところの「しゅうまい」位のメジャー度合いなのかもしれません。
ぎょうざではないところに、マイナー感があります。
入社して10年目になりました。担当の機械ですらまだまだ勉強中で、電気や水質、経営など下水道に関することでも分からいことはいっぱいです。
外から見れば少しマイナーな世界は、奥が深いです。

私のJS10年生活

東北総合事務所施工管理課 藤巻 毅

JS が創立50 周年という事で、大きな節目を迎えようとしています。また、私にとっては入社10 年目という事で、大きくはないですが小さな節目を感じております。
私は今まで西日本設計センター電気設計課、関東・北陸総合事務所施工管理課、東北総合事務所施工管理課(現在)と勤務して参りました。
10 年を振り返り、何が印象に残っているかと言えば、業務の内容も当然ですが、ここでは沢山の人と出会い、知り合えたことについて書いて行きたいと思います。
合計8年間の西日本設計センター、関東・北陸総合事務所時代は課の中に、課長、課長代理(いない時期も有)、自分しかプロパー職員がいないという状況がほとんどでした。そのような中で、西日本時代は大阪、京都などなどから、関東・北陸時代は東京、横浜などなどからの出向者の方たちに本当にお世話になりました。
良かったのか悪かったのかわかりませんが、この8年間は課の中で数少ないプロパーであると同時に30 代も後半になるまで課の中で最年少という状態でした。ですので、その間はいい歳をしているのに、出向者の方たちには本当にかわいがっていただけたと思っております。母体での経験からくる設計、施工の注意点、事業団と出向者の方々の母体との様々な違い、具体的にすると書いてよいのかわからなくなる事も多い(?)のでここではやめておきますが、沢山のためになるお話を聞かせていただくことが出来たと思います。
プロパー同士、一緒に仕事をしたり、個人的に仲良くなったりというのも当然あるかとは思いますが、プロパー同士であれば転勤になっても辞めない限りはいつかまたどこかでね。というような思いになりますが、出向者の方々とは、いずれ(職場としては)お別れの日がくるという前提での付き合いでしたので、年度末が近づくとあと○ヶ月、○日で卒業だと言うように毎年のようにネタになっていました。中には「もっと事業団にいたい、帰りたくない」という方もいて、そんな話を聞くと少し嬉しく感じたりもしました。
関東・北陸時代に一緒だったとある出向者の方とは、担当現場も一緒で非常に仲良くなることができ、去年私は東北にいたのですが、その方がJS 最後の年でしたので、年度末に一度、関東で他の方も交えて集まることが出来たのは非常に貴重な、大切にできるいい思い出になりましたし、今後も機会を作ってそのような関係が続けばとも思います。
2017 年度に東北総合事務所に異動になり、今までとは打って変わって自分より若いプロパーが多く、自分も10 年目で10 年分歳をとったんだなと、もしかしたら今まで大分甘えさせてもらえたのではないかと若手プロパーを見ながらプレッシャーを感じております。このように沢山の人と出会え、知り合う機会の多い職場ということを大切に、今後を楽しみに、50 周年を迎えたら次は100 年でしょうか。微力ながら関わって行くことができればと思います。

虹の下水道館 お仕事体験ツアーについて

50 周年記念事業等準備室長 水津 英則

50周年記念行事等準備室長の水津です。室が設置されて1年が経過し、皆様にはその進捗はメルマガの発行が伝わっている状況かと思いますが、この1年間、室員は他組織の50周年記念行事の調査、行事(案)、下水道を愛する個人、関心のある団体の調査、30周年誌以降の年表作成と、精力的に、順調に作業を進めております。今年度も、引き続き様々な視点から皆様全てが50周年を実感できるような企画等について検討していく予定ですので、よろしくお願いいたします。
さて、メルマガも第4号。第2号、第3号と室員のお2人が実際に体験したことをご報告しているので、私も何かそういった記事を、と思いまして、三男を連れて東京都下水道局の広報施設である虹の下水道館に連れて行ってきましたので、そのレポートをさせていただきます。

虹の下水道館は、以前長男・次男といったことがあるのですが、入館したところ、記憶と全く違う。それもそのはずで2013年に大幅リニューアルを実施したとのこと。我が家は朝早めの出発が苦手なので、13時過ぎについたのですが、インフォメーションにて小学生は下水道に関するお仕事体験ができるといわれ、せっかくだからと、14時からの「下水道管をたんけんしよう!」を申し込み。

よく聞けば、お仕事体験は土日祝日に開催しており、全部で5つのお仕事体験があり、10時から15時まで、1時間区切りで計5回。1回に3つのプログラムが用意されており、それぞれの定員は6名。1日いればすべてのプログラムを体験できることになります。時間になり、管内にある「水再生センター」の事務所に集合。ちゃんと作業服に着替えます。どうやら下水道管の再構築工事を行うために下水道管内に入るようです。
説明を聞き、いよいよ出発。

マンホールから下水道管の中に入っていきます。ちゃんと安全帯をかけて、順番に中に入っていきました。
ここからは、暗いので撮影できませんでしたが、ヘルメットについているヘッドライトの明かりを頼りに下水道管を進んで、下水道管内にあるいくつかの破損を探す、その破損を治す方法(SPR 工法)を教わるというものだったよう。

↑中はこんな感じ。(出典:日本SPR 工法協会HP)

下水道管から出てきて、再び、水再生センター事務所に集合。それぞれ体験して感じたことなどを、もらった「お仕事手帳」に記載。職員の方からお仕事体験の証明スタンプをもらいます。その後、3つのプログラムを体験した子供たちが親に、プログラムごとに「お仕事体験発表会」を行い、終了です。
三男はかなり満足したようで、「次の回も参加したい!!」。聞いてみると「下水道をピカピカにしよう!」はまだ参加可能とのことで、早速申し込み。

参加者は2人。15時の回は全体的に少なめ。
再び作業服に着替えて、作業場に出発。看板に、作業内容、日にちと時間、作業する人の名前を書いて、マンホールがある作業現場へ。
作業する現場をまずコーンとバー、案内板で囲み、その後ガラスで囲まれた現場内に入室。
どうしてガラスに囲まれているのかな?と思いつつ見ていると、まず、下水道管の汚れ具合を確認するため、ファイバースコープを管内に入れ、カメラで目視。

汚れ(オイルボールをスポンジで表現したもの)をカメラで確認できたら、そこに向けて高圧洗浄機で水を噴射して汚れを清掃。一人が汚れに向けて水が当たるように方向をコントロールし、もう一人はレバーを調整して水の噴射を調整。かなりの水が飛び散り、ガラスで覆われている理由がここで判明。
参加者が2人なので、結構時間があり、カメラで汚れを確認しては、再び高圧洗浄、これを数回繰り返せたので、ちょっとお得な感じ。洗浄するたびにオイルボールスポンジがでてくる。体験が終わり、次回までに、再び管の奥にスポンジを付けるのだと思うと、職員の方も大変だなあと思ってしまう。

無事に下水道管の掃除を終え、看板の記載を消して、再び、水再生センター事務所に集合。今回も体験して感じたことなどを「お仕事手帳」に記載。職員の方から、今回の体験の証明スタンプをもらう。そして、「お仕事体験発表会」。水をうまく汚れに充てるのが難しかったなどを発表しました。
実は1回目の体験で分かったことなのですが、このお仕事体験5つをすべて制覇し、土日祝日の11時からのみ行っている「有明水再生センターガイドツアー」(有明水再生センターは虹の下水道管の地下にあります。)を参加して、お仕事手帳にスタンプ6つもらうと、「下水道マイスター」になれます。

三男が、2つ目にチャレンジしたのもこれが理由。5つのお仕事体験は朝からくればすべて制覇できますが、実は11時のガイドツアーに参加すると体験は4つが限界。つまり、マイスターになるには最低2回来館しなければなりません。
ちなみに、マイスターになると、賞状のほか、受付横にあるガチャガチャができるコインとあと一つ何かもらえるようです。

三男は、まだ、スタンプ2つ。日曜と祝日は野球の練習があるので、行けるのは土曜日のみ。でも、下水道マイスターになりたいので、来週また行きたい、と言っておりました。
さて、三男はいつ下水道マイスターになれるでしょうか。これはまた後日報告します。
といって、この報告を締めるところでしたが、実はすぐに続きが….

翌日日曜日は雨。野球(午後練習)の中止連絡が11時にありました。三男は、「下水道館でお仕事体験しよう」と言い始め、嫁さんも了承。お昼を食べて12時過ぎに出発。
13時の回に空きがあるか電話で確認したところ、「び生物をかんさつしよう!」が1名空きがあるとのこと。電話予約できないので、駐車場につき次第、すぐに嫁さんと子供を先に行かせたところ、無事に予約OK。さらに14時の「まちを大雨から守ろう!」15時からの「パイプをつないでポンプを動かそう!」も予約。これでお仕事体験計5プログラムは本日で制覇!ということになります。
13時になり、水再生センター事務所に到着。今回は、事務室奥の水質検査室に異動。微生物観察なので、作業服は上だけ。

写真ではわかりませんが、この右側に、顕微鏡で見える可能性のある微生物の絵がたくさん飾られていて、これがいた、あれがいたと確認しながら何度も顕微鏡をのぞき、見つけた微生物をスケッチ。
三男が気に入ったのはクマムシ。
写真で気に入ったのか、「あったかいんだから~」で名前を知っていたからかわかりませんが、必死に探して、何とか見つけたようです。
それぞれの微生物の特徴を先生が教えてくれて、終了。

(出典:横浜市HP)

事務室に戻り、また、お仕事体験発表会。3回目ですが、一応内容が違うし、さすがに慣れてきて、そこそこの発表をしておりました。
さて、14時からは、「まちを大雨から守ろう!」。これは、事務室奥にある中央監視室でパソコンを使用して、遠隔操作で時間ごとに代わる雨の量を勘案しながらポンプを稼働させるかどうかを判断するというものでした。先ほどの微生物観察もそうでしたが、動きがないので、見ているこっちはちょっと退屈。ずっと見ていられず、その場を離れたところ、ちょうど映画上映があるとのこと。嫁さんを誘ったがなぜか拒否されたので一人で鑑賞。

この映画は特に上映開始時間が決まっているわけではなく、見たい時に担当の方にお願いすれば上映されるという便利なシステム。
どなたかが依頼したみたいで、その時の上映は「ウォルター」でした。お子様が見るにはちょうど良いアニメ。自分は温水さんが出るものが見たかったのですが。
それぞれ10分ないほどの映画なので、全部見てもよかったのですが、担当の方に申し訳ないので、1本だけ。感想は、子供向けなのでね・・・。
そのうち、お仕事体験発表会のお時間。今度は人数も多かったので、あまり発言もなく終了。

最後の15時からは「パイプをつないでポンプを動かそう!」。これはなんと三男のみ参加。事務室隣のポンプ所に入り、ポンプの動きを確認。一部が動いていないようで、どうやら汚れて詰まった様子。工具を身に着け、一度パイプを工具を使って外し、中を掃除してつなげる作業を行うよう。やり方の説明を受けて、パイプの取り外しを開始。パイプを掃除したところ、汚れの代わりであるスポンジがボロボロ出てきました。きれいにして、パイプを元通りにしたところ、きちんとポンプが稼働するようになりました。これも無事に終了。
お仕事体験報告会は一人でちゃんと説明ができました。
これでお仕事体験は制覇。残すは有明水再生センターの見学のみ。前述のとおり、我が家は朝出発が苦手なので、11時開始の予約を無事にすませ、三男は下水道マイスターになれるでしょうか。これは本当に改めてご報告します。

長々と大変失礼いたしました。
追伸:虹の下水道館に来ますと東京23区版のマンホールカードをもらえますよ。現在は第4弾らしいです。
JS の50周年で、スペシャルのマンホールカードを発行できたらなあ、と勝手に思ってます。

新シリーズ「下水道を愛する個人・団体」第1回 日本の衛生工学の父 W.K.バルトン

今回から「下水道を愛する人たち」と題して、下水道関連について職業などではなく、趣味としていろいろな活動を行っている人たちを紹介していきたいと思います。
記念すべき第1回目は、日本の衛生工学の父とよばれているW.K.バルトン(日本における通称、正式にはバートン)を紹介します。

W・K・バルトン(またはバートン)は1856 年にスコットランドのエディンバラで生まれ、エディンバラ・カレッジエイト・スクールを卒業した後、ロンドンの衛生保護組合に就職し、上席主任技師として活躍していました。
明治17(1884)年に、渡欧中の内務省衛生局永井書記官(永井荷風の父)らと知り合い、彼の推薦を受けて、当時コレラ等の流行病の対処に苦慮していた明治政府の内務省衛生局のお雇い外国人技師として、三年後(明治20年、1887 年)に来日しました。衛生局ただ一人の顧問技師として、東京市の上下水道取調主任に着任すると共に、東京帝国大学工科大学(後の東大工学部)で我が国初の衛生工学講座を開きました。
人間味に溢れ、酒に酔って講義をする彼の授業は人気を博したことのようです。中島鋭二を始め、のちの衛生工学及び上下水道を支える人材の多くはここを始祖としています。当時は、開国によって死亡率70 パーセント近いコレラや赤痢が井戸水を通じて各地で猛威を振るっていました。内務省顧問技師となった彼は東京、名古屋、神戸、松江等、全国二十数カ所の都市の水道調査や基本計画を立案しました。
当時人口三万六千人の水都・松江の水道計画は、彼の調査報告書がもとになっています。松江におけるバルトンは和服姿で酒席に臨んで「見事な日本流」で盃を酌み交わし、印象を残しました。

明治29(1896)年、後藤新平の推薦により台湾に渡りましたが、病に罹り、帰英途上の東京で他界(享年44 歳)母国への帰国を果たせず、青山墓地に葬られました。(ちなみに日本人の満津(マツ)と正式結婚したバルトンは、長女タマを授かり、現在も日ス両国で子孫が系譜を継いでいる。)
日本の関係者はバルトンを「衛生工学の父・上下水道の父」と讃え、命日をバルトン忌として功績を偲び、生誕150 年の2006 年前後には、日ス関係者の相互訪問など様々な行事を催し、日本側の訪問により、「忘れられていた故郷の英雄が日本から凱旋した」と地元紙が報じました。
また、松江市忌部浄水場の一角には、明治28(1895)年に、この街を訪れ「左水(サミズ)を水源とする松江水道」の基本を提言した内務省顧問技師バルトンの記念碑が、2007年に建立されました。(左水とは松江市西忌部町にある水源の名)

(余談)イギリスの小説家のアーサー・コナン・ドイルは、幼少時バートン(バルトン)家に預けられていたことがあり、ドイルの終生の友となり、シャーロック・ホームズシリーズでの日本に関する知識は、バートン(バルトン)との交流によるものだと言われています。(文責;中島)